
>> 拓磨 レポート
  |  |  |  | * インフォメーション 2006/08/11
|  |  |  | 竹内レポート 当サイトの長屋宏和、青木拓磨インタビューを読んだら元気が出た、という ALS(筋萎縮性側策硬化症)という原因も治療法もわかっていない難病にかかられている茨城県の竹内聡さんとおっしゃる方からメールをいただいた。 |  |
 |  |  |  | * 拓磨 レポート 2006/02/08
|  |  |  | 青木拓磨プロフィール 今後、対談や旅日記などをお届けする、元 GP レーサー 青木拓磨のプロフィールはこちらから。 |  |
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 | 青木拓磨サイトオープンへの想いを語る
世界最高峰の GP500(現 moto GP)で類い稀な才能から、すばらしい成績を納めた。期待された 2 シーズン目のテストで起ったアクシデント、そのとき、青木拓磨は何を思ったのか。
インタビュー:津島健太(VividCar.com)
|  |  |  | Update: 2006/02/09
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しょうがないからやったポケバイ
7 歳の時からポケバイに乗ったのがモータースポーツとの出会いです。
兄弟 3 人(宣篤、治親)同時にはじめたんです。本気になったのは小学校の 5 年生ぐらいじゃないですかね。最初はやっぱり長男の宣篤が一番本気だったんじゃないかな。僕はあんまり。みんなが行くし親も行くから行かなきゃしょうがない、という感じでした。家に置いて行かれるのがいやだっただけ。その頃はポケバイが家族の娯楽でしたから。
初レースの時は 6 人中兄弟仲良く 4 , 5 , 6 位でした。特別速いとかそういうわけでもなかった。その時ポケバイの全盛期だったんですよ。本山(哲)クンよりも少し後、彼がポケバイからカートに移った頃、(加藤)大治郎が出て来る前に僕らが始めた感じでした。
ポケバイからミニバイク、ミニバイクからロードレースと進んで始めて給料をもらったのは 17 歳の時ですね。でもまだ当時は、プロっていう意識は全然なかったですね。まだ高校 2 年生でしたから。今考えるとあの時は恵まれていましたよね。日清カップヌードルさんがメインスポンサーについていただいて、17 歳で全日本ロードにデビューしましたから。やる気があったのは兄の宣篤、才能があったのは僕と弟(笑)。まだうちの長男現役で走ってますから(笑)。この間 Moto GP 出 てましたよ。「まだやるか」って(笑)
17 歳から HONDA のサテライトチームに入って、HONDA レーシングのワークスになったのは 95 年。97 年はレプソル・ホンダから世界ロードレース選手権に参戦しました。怪我をする前の年だったんですけれど、その時が一番楽しかったですね。
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世界との差なんてない
世界選手権の GP500 って四輪でいう F1 ですから。世界に出たらレベルが違ったかというと、そうでもなかったですよ。こんなもんかなって感じ。500c.c. になると日本人の体格ではきついって言う人がいますけど、そんなことないです。意識だけの問題。僕も決して突出したライディングセンスを持っていたわけでもないですけれど、みんなテクニックでは同じぐらいのレベルなんです。 バレンティーノも確かにうまいし、ニッキー・ヘイデンとか、バロスとか、ビアッジとか、エドワーズとか、いろんな選手がいますけど、みんなレベルは一緒なんです。過去有名なドゥーハンだったり、フレディー・スペンサーだったり、その世代その世代でライバルがいて、その中で勝ちつづけていくモチベーションや意識は、どこまで相手を威圧できるかの精神戦なんです。
でもそれに気づいているライダーって結構少ないんです。チャンピオンをとったライダーや勝ち星をたくさんあげたライダーだけが、そのことをわかっているんです。本当はどんぐりの背比べの所を、どうやって自分を見せたら相手にとって自分が大きく見えるかというやり方を知っているだけです。それはレース中だけじゃなくて、メディアの使い方だったり、テストの時だったり。その勝負はウインターテストから始まっています。
F1 よりはマシンの差も全然ないです。バレンティーノがヤマハに乗って、他のヤマハのライダーって勝ってないじゃないですか。あれって全員同じマシンですよ。才能もあることはあるんですけれど、それが原因じゃないですね。レースでもテストでもオフでもほんの小さなチャンスを逃さずに拾い続けた人間が少しずつ上に上がっていって、それを拾えなかったらその場に留まるか下がっていくしかない世界なんです。
レースってトランプの「大富豪」ゲームと一緒。何度か連勝するとずーっと勝てるんです。波がそっちの波になっちゃう。というのは、ゲームで大富豪が続くと、「アー、またあいつに強いカードがいってらー」と回りが思っちゃって残りの 3 人だけで勝負をはじめちゃうんです。その時点で3人は負けなんです。チャンスをどうやってたぐり寄せるか、それが大事なんです。
僕の世界選手権での最高位は 2 位。その時に勝ったのはクリビーレ。その年のランキングは 5 位でした。ホンダが 1-2-3-4-5 だったんです。長男の宣篤は 3 位。チャンピオンはドゥーハン。なんで僕が 5 位だったかって言うと、同じ500c.c.初めて走ったんですけど、彼は 2 年早く出ていて、なおかつ乗っているマシンが雲泥の差があるマシンだった。それこそ四輪の GT500 と GT300 ぐらいの差。ちょっと言い過ぎかな? 500 と 400? 逆に言えば勝って当然のマシン。もっと勝たなければいけなかった。
さっき、F1 よりもマシンの差は全然ないと言ったのと矛盾しているけれど、僕が参戦した 97 年と翌年だけは別だった。僕が乗っていたのは NSR500V。みんなが乗っていたのは NSR500。V っていうのは 2 気筒エンジンで NSR500 は 4 気筒。ちょうど狭間の時期で、その年は混走だったんですね。どうして乗せてくれないんだ。乗れば絶対勝てると思ってました。
事故は 97 年シーズンが終わった 2 月。98 年モデルのテスト中、栃木県のホンダの研究所の中のテストコースでした。単独事故でしたね。頭は問題なかったので全部覚えています。「あれー、まずいかもしれない、これ」っていう野が第一印象。痛いという感覚がないし。自分の体が今のようになるってわかったのはすぐですね。「あ、これが話しに聞いていたやつだ」って。せき髄損傷ですね。ウェイン・レイニーっていう偉大なチャンピオンライダーがいて、91 から 93 年まで連続チャンピオン。その彼が 94 年のサンマリノ GP でトップ走っている時に転んじゃって、僕と同じようにせき髄損傷になったのを知ってましたから。
その時僕が乗っていたのは NSR500V の進化型。2 気筒マシンでした。もう 1 年 2 気筒と言われてどうして?という思いはあったけれど、もう 1 年やってみようかな、と思ってテストしてました。もしかしたら、そこで 4 気筒じゃなければ絶対いやだ、と言えば良かったのかもしれない。でもその時は、V2 でも勝てる可能性がゼロではないと思って契約をしたんだと思います。僕も怪我をして何年かたってから聞いたんですけど、契約の時にチャンビオンをとったドゥーハンが「拓磨には 4 気筒に乗せるな」というのを HRC の社長に言ったらしいんですよ。「拓磨に乗せるとチャンピオン争いになるから」って。社長直々から聞いたんですけど。98 年のドゥーハンの契約条項に「拓磨には NSR500 に乗せない」と書いてあったと言うんですね。
入院は 1 か月半ぐらいでしたね。せき髄の他に左腕が折れていました。怪我を受け入れるとか、あまりそういう葛藤はなかったですね。まだ直ると思ってたし、今でもそう思ってるし。長引くだろうなとは思いましたけど、重いけがなんだからしょうがないな、と。 1 年休んで国内の HONDA レーシングの助監督になりました。今まで人を教えたことなんてなかったので、いらいらしましたね。どうやってチームをまわしていくものなのか、どうやってライダーをケアしていくものなのか葛藤はありました。それを経験したことによって、人に教えることってすごく自分のためになるんだな、と思いました。その経験からキッズスクールを始めるようになったんだと思います。
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なんでこんなに外に出にくい?
車椅子の生活になってまず最初に感じたのは、何でこんなに外に出にくいんだろうということです。電車で外に乗ることすら 1 人で出来ないことにまずいらつきました。前に進むのにも時間がかかるし。段差もきついし「なんだこれ!」って思いました。
普通の歩道があるじゃないですか。歩道って斜めになってるんです。それって赤ちゃんのバギーを押すお母さんか車椅子の人間じゃないとなかなか気づかないですよね。排水のことを考えてるのかもしれないですけど。それから道路と歩道切れ目のほんのちょっとした段差。なぜフラットにまで掘り下げられないのか。なぜあんなほんのちょっとの段差を残すのか、僕にはわからないし、全然意味がないと思う。アメリカなんかあんな段差なんてないし、全部フラットになってますよ。
町に関して言うと、トイレの少なさですよね。手すり以前に狭くて車椅子が入れない。最初の頃はすごく神経質になりましたね。今でこそなんとかなるって思えますけど。 田舎に行く時は町役場とか病院を確認しておくと、役場にはバリアフリートイレがありますから。でも夜だとねぇ。なんで共同トイレに車椅子が入れないの。普通のトイレの仕切りを大きくしてくれるだけでいいのに。わざわざ車椅子専用の個室を増設することを考えるから金もかかるし、ひとつしかなかったりする。今後高齢化社会になって車椅子の人は確実に増えた時に、ひとつじゃ絶対足りなくなるんですから。
サービスエリアや駅にあるガラガラっとあけるトイレ。あれはあれでストレッチャーが入るとか、必要だと思うんですけれど、あれを作るのに 1000 万以上かかるっていうんです。わざわざあれを増設しなくても 6 つ普通の個室があるとしたら 2 つのスペースをつないでひとつの便器にしてくれたらいいんだよっていうこと。それか今のトイレのドアの幅って 60cm か 70cm ぐらいが多いんですけれど、それが 80cm になると車椅子が通れるっていうことが多いんですよ。
ホテルの部屋がバリアフリーの所もありますけれど、バリアフリーの部屋って高いんですよ。ツインルームのサイズになっちゃうんで。僕の場合はそれだったらシングルでいいよって泊まっちゃいます。なかなかそういう所もわかってくれないし、まったくない地域もあります。その場合でも僕はなんとかしてお風呂とか入っちゃいますけれど。
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福祉車両
車はすぐに乗りましたね。最初はハンドアクセルがやりにくいなーとは思いました。でも元々が手でアクセルとブレーキをやっていた職業だったので、手でアクセルやブレーキを操作することに対しては、全然違和感がなかったですね。本当だったら右手の方がいいのかなっていうぐらいですね。それに慣れてから、そう言えば車の運転ってなんで足でやらなきゃいけないんだとすら思いました。
車の自動操縦の時代は来ると思うんです。そうするともうちょっと福祉車両も増えると思う。福祉車両と一言に言っても右ハンデや左ハンデの方もいらっしゃいますし、一概には語れないと思います。僕もジャーナリストの仕事をしていますけど、車の評価は善し悪しはあっても結局は好みになってくるので難しいけれど、例えばまだ福祉車両に慣れていない人だったらこういう車がいいとか、そういうのはありますね。例えば天井が高い方が、自分が運転席に乗ったあと、車椅子をぐっと持ち上げてしまうのにしまいやすいとか。運転席と車椅子の高さがなるべく近くて、ちょっとだけ車の座席が高いぐらいが乗り降りがしやすいとか。僕が乗っているオデッセイはアブソルートじゃなければ乗りやすいですよ。アブソルートはサイドフェンダーがちょっとでっぱっているのでちょっと乗りにくくなります。
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レンジローバーに乗ってたこともありますよ。あれって座席が高そうに見えて車高調がついているので、目一杯下げれば乗れるんです。シトロエンなんかも乗りやすそうですね。乗ってからはもともと高いのが好きなのでハイにするんです。
僕が一番最初に乗ったのは日産のサファリでした。大きな車で背の高い車が昔から好きだったんです。車椅子になってからもそういった昇降付きのものであれば乗れるし、好みを変えてません。ランドクルーザーのシグナスだって好きですよ。自分は形から入って乗りやすさは二の次かなあ。最初に車を選ぶポイントって、もちろんエンジンのパフォーマンスや燃費であったり、乗れる人数であったり、ハッチバックの状態だったり、いろいろあっても、その限られた中でも、結局最後は好みの形ですよね。
シートのホールド感は大事ですよ。軽自動車なんかはフラットのものが多いですから。今は車椅子の人のためのシートも開発されてきていますから、これからは補機類は選べる時代になってくると思いますよ。要はサポートもできて乗り降りがしやすいシートが必要で、車椅子のしまいこみもしやすいということですよね。なおかつレースっぽくてかっこよくって、それでいて腰が疲れないというシート。僕も今開発のお手伝いをしています。まだ詳しくは言えませんが、そういうのがいいですね。
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客寄せバンダで構わないから伝えたい
このサイトで伝えたいのは、僕のバリアフリーに対する考え方であったり、僕もカートのレースで走ってますし、無限大にやれることはあるんだということを、読者の人には伝えていきたい。僕のやってることを見て「なんだよ、タクマができるんだったら俺だってできるよ」っていう人がどんどん出て来て欲しい。そういった僕の知っている知識や見解や文献を伝えていけばいいのかな。また、ヨーロッパやアメリカの話なんかも伝えていければなと思います。
段差の話もそうだけど、スロープやエレベーターをつけられない場所だってあるんですよ。万が一移動ができない所でも、「心のバリアフリー」っていうと重く感じちゃうのかもしれないですけれど、一緒に共存しているっていう部分をもっと認識してもらいたいと思います。なんで駐車場に車椅子のスペースがあるのか。なんで普通の方は止めないでくださいと書いてあるのか。その意味をわかって欲しいです。
それには、僕だけじゃなくてたくさんの車椅子の人が外に出て来ないと。「車椅子の人って多いんだな」ってその認識をさせないと、「どうせ車椅子なんかめったに来ないんだろ」という気持ちから平気でそこに駐車してしまうと思うんです。ただ、福祉だけのコンテンツではなくて、もっと違った意味で世間一般に向けて知ってもらえるようになるといいな、と思います。
そのためには自分自身もどんどん表に出て、自分の姿をさらけ出さなきゃいけないと思ってます。それを客寄せパンダと批判する方もいらっしゃるかもしれないですが、「じゃ、誰がやるの?」ということになると思います。客寄せパンダになってもいいから、こういう人がいるということを知ってもらうことが大事だし、そうじゃなかったらいつまでたっても障害を持っている人たちが自立のできない社会になっていくと思うんです。
「心のバリアフリー」って眼鏡と一緒だと思うんです。障害ってひとつの個性だと思うんですよ。目が見えない人は他の所に感性が鋭くなっていたり、そういった部分で長けている部分もあるんです。普通に目が悪くなったから眼鏡ほかけて遠くのものを良く見ようとするっていうのだって、重度の障害という認定を受けてないだけであって、障害以外のなにものでもない。 それと同じで、僕らも移動するものに対して、車椅子というツールが便利だから車椅子に乗っているだけで、決して誰でもどこかに障害を持っていて、100% 健常っっていう人はあまりいないでしょう。誰しもが、年をとって腰が曲がるわけでしょう?そしていつかは死ぬわけですから。 自動車にしても、それがひとつのツールとして、そういった物があれば、その可能性がゼロだったものから「できる」っていうワードに変わっていくわけです。そういう世界にしていきたいなと思っています。
日本においてのせき髄損傷の考え方だって 5 年前、10 年前から全然変わってきています。昔は絶対直らないと吐き出すような言い方をされていた時期もあったのですが、「いやいや、もしかしたら直るかもしれない」っていう状況に進歩してきているんですよね。まったく希望がないのに希望を語るのはつらいことだし、とてつもなく長い道のりかもしれないけれど、それが進歩しているなら一歩ずつ進んでいけばいいと思うんです。要は闘争本能に火がつけばいいんです。
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レースに出たい
でも、僕はパラリンピックには出たくないんです。あれ事体が差別ですから。やっぱりレースに出たいですね。今の状態で乗れるバイクはないです。ホンダが開発していますけれど、まだ実用化してないです。でも競走したいですね。20 年以上バイクで生活していたので、いきなりはじき出されると、何をしていいのかわからなくなる。
今は自分の経験を次の僕にならないように何かできるんじゃないかと、思ってます。それは安全対策であったり、走り方であったり、転び方であったり、そういうものにつながっていくんじゃないかと。自分のチームをもつなら監督もしますけれど、やっぱり走る方がいいですね。
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