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  |  |  |  | * 長屋 レポート 2006/02/08
|  |  |  | 長屋宏和プロフィール 今後、東京バリアフリーリポートや福祉車両の試乗記をお届けする、元 F3 レーサー 長屋宏和のプロフィールはこちらから。 |  |
 |  |  |  | * インフォメーション 2006/08/11
|  |  |  | 竹内レポート 当サイトの長屋宏和、青木拓磨インタビューを読んだら元気が出た、という ALS(筋萎縮性側策硬化症)という原因も治療法もわかっていない難病にかかられている茨城県の竹内聡さんとおっしゃる方からメールをいただいた。 |  |
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 | 長屋宏和サイトオープンへの想いを語る
長屋宏和はレーサーとして順調にステップアップしていた。そして、そのとき、事故が起った.....
インタビュー:津島健太(VividCar.com)
|  |  |  | Update: 2006/02/09
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きっかけは F1
子供の頃は野球少年でしたね。プロ野球の選手になりたいなあって思っていて、小学校、中学校ではずっと野球をやっていました。中学 2 年の時、幼馴染みのお母さんがたまたま家に来ていて、話の中で「今週末 F1 を見に行くんだけど宏和クンも行く?」って。それまで全然 F1 に興味はなかったんですけど、誘われたら「行こうかなあ」って、その程度のきっかけでした。
92 年、HONDA 最後の年。TV でも見たことがなかったので、レースそのものを初めて見たのが鈴鹿の F1 でした。それでも F1 を見た時に、野球よりもやりたいことが見つかったと直感しました。それをきっかけにアイルトン・セナに憧れたんですけれど、セナの名前も行くまで全然知らなかったんです。
家に帰ったらすぐ親にレースを見て魅力を感じたことを伝えました。反対はしなかったけれど「やりたいなら自分でやりなさい」という感じだったので、じゃ、自分で探してやるってカート雑誌を探しました。そこに乗っていたカートチームに手紙を書いたら 2 通だけ返事が来て、そのうちのひとつに入れてもらいました。
最初にカートに乗った時はびっくりするぐらい才能はなかったですよ(笑)。乗る前は自分の中では世界一速いだろうぐらいに思ってたんですけれど、ビュンビュン抜かれるし簡単にスピンするし(笑)。 でも、おもしろくて野球はすぐやめちゃいましたね。それから毎週のように土日はサーキットに行ってました。野球とかサッカーはプレイそのものは好きなんですけれど、チームプレーが苦手なんですよね。誰かのせいで負けちゃったとか、すごく嫌だったんです。 レースもチームなんですけれど、スタートしちゃえばほとんど自分という所あったから、自分にはむいていたのかなあ、と思います。
カートは 19 才ぐらいまでやってました。免許をとってエルフ(フランスのオイルメーカー)のスカラシップオーディションがあったんです。僕は成績は 2 番目だったんですけれど選ばれて。フランスに行ってフォーミュラ・ルノー・キャンパスに参戦しました。オーディションもカートだったので、フォーミュラ・カー事体フランスに行って初めて乗ったから最初は散々でしたけれど、徐々に慣れてきて最終戦では 3 位になりました。
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順調にステップアップ、そして・・・
次の年も海外でやりたい気持ちはあったんですけれど、何をどうしたらステップアップできるかもわからなかったのでとりあえず日本に帰りました。そうしたら FD(フォーミュラ・ドリーム)のオーディションがあるというので、受けさせてもらいました。
FD のオーディションって、速さを競わずにストレートにパイロンを置いてシフトダウンのやり方とかを見るんですけれど、僕は誰よりも速く走ってやろうと攻めすぎてパイロンを飛ばして怒られました(笑)。
FD は 2 年やりました。1 年目の前半はビリ争いをするぐらいだったんですけれど、夏が過ぎてあたりにはトップ争いできるようになりました。2 年目は勝てないけれど 2 位ばかりのシリーズ 2 位でしたね。
翌年 2002 年からは全日本 F3 にステップアップしたんですけれど、開幕戦が走ったことどころか見た事もなかった筑波サーキットだったんです。それでもなんとか 3 位を走っていた所、最終コーナーでクラッシュして終わっちゃいました。そのクラッシュの後はそのシーズンはずっと結果にはつながらなかったですね。
鈴鹿の F1 日本グランプリの前座レースでフォーミュラ・ドリームがあるんですけれど、フラストレーションもたまっていたし、このまま低迷していては翌年の F3 のシートがなくなるという思いもあったので、いろいろアプローチして乗せてもらいました。 F1 の前座の時だけは前年度のチャンピオンとか、何名か招待選手が乗れることも知っていましたし。絶対大観衆の前でぶっちぎっていい所を見せてやるって思ってました。そうしないと次の年はないと思ってましたから。その時の招待選手は僕と細川慎弥と松浦孝亮と小暮卓史でしたね。
金曜日の練習走行で走り始めたらギアが組み間違えられてて 1 周もできなくて、そこで流れが崩れたのは覚えています。それでも予選はなんとか5位だったみたい。でも記憶にあるのは金曜日の夕食を食べた所までなんです。予選も記憶にないし、次の記憶は病院のベッドの上からですね。痛いという感覚もなかったですね。
事故の直後は自分で呼吸もできなかったし、気管切開をしていたので 3 か月か 4 か月はしゃべることもできなかったんですけれど、お医者さんから言われたので覚えているのは、今の医療では歩くことは無理、一生車椅子だということですね。レースをやっていて首の骨が折れたらただ死んじゃうと思っていたので、首の骨が折れて中枢神経に傷が入ったと言われても、どんな障害が残るのか全然想像がつかなかったです。
なんだかんだと 2 年ぐらい入院しました。それから母がいろいろ調べて事故から 1 年半ぐらいアメリカのシアトルに頚椎の手術の研究をしている先生がいると知って 3 か月アメリカに行ったりもしましたけれど、何もできなかったです。今の技術では無理だと言われました。 事故の後すぐは、入院してれば直るからとまわりは言ってくれたし、首の骨が折れたっていっても生きてるんだから普通の骨折と同じような気でいたので、みんなから 1 年ぐらい遅れちゃうなあっていうぐらいの感覚で捉えてました。自分の運命を受け入れるとかそういうことは考えなかったですね。
今は指がまったく動かなくて握力はゼロです。腕も曲げる力はあるんですけれど伸ばす力がない。筋肉で曲げて重力で伸ばすということです。C6 って分類されるんですけれど、手首の中枢神経に障害があります。C5 だと手首を曲げる力もなくなっちゃうし、C7 だと腕を伸ばす筋肉も使えたり。感覚があるのは首から上と腕だけです。胴体から下は麻痺しているので暑さや寒さも感じませんし汗もかけないので、夏場は気をつけていないと体温が知らない間にあがって、気がつかないうちに熱中症のような状態になって危ないです。
リハビリって言っても、今以上にどこかが回復するという見込みがないので、動かせない筋肉を動かして硬直しないようにしたり、後は筋トレですね。
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運転するということ
車の運転は半年前ぐらいからですね。運転することは全然恐くないです。HONDA のオデッセイに自分にあった補助装置を、アストロという運転補助装置を作っている会社につけてもらいました。 手動アクセルとブレーキはそのままの重さですけれど、ハンドルは少し軽減しています。でも、オデッセイ事体がもともとハンドルが少し重いので少し軽減していますが、トヨタとかのもともと軽い車に比べたら重い方ですよ。 アクセル・ブレーキの補助装置は普通は左側につけるんですけれど、僕の腕は左の方が動きがいいので、右側につけています。右手だと手の返しに問題があるので力の使える左手でハンドルを持つようにしています。
病院では運転するのは絶対無理だと言われていました。でも教習所で練習しました。 そこの教習所は僕のように体に障害のある人たちが行く教習所です。そこの教官にも「絶対無理だからやめなさい」と言われましたけとれど、「でもそんなことを言っても乗りたいものは乗りたいんだ!」って。絶対乗ってやるって思ったし、自信もあったし。そこの教習車は一般的な福祉車で僕の障害にあったものではなかったです。教習所を走ることぐらいはできたけれど、あの車で外に出ろと言われたら恐いかな、という感じかな。
車を運転するようになって一番うれしいのはサーキットに行けるようになったことですね。やっぱり誰かにお願いしてサーキットに行くのは僕の中でプライドが許さないというか。当たり前のようにできた運転が出来なかった時期は結構つらかったですし、しかもお願いして連れていってもらって、僕だけのためにみんなの都合をあわせてもらうっていうのは・・・。レースをやっていた時も自分でなんとかしようと努力してきたので、そういう風にお願いするっていうのがいやでしたね。
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ユニバーサル・ファッション
今はユニバーサル・ファッションのプロデュースの仕事をしています。 今までのユニバーサル・ファッションって使いやすさについては考えていてそれは問題ないんですけれど、普通にダサいとかセンスがないとか、そういうのが僕自身ユニバーサル・ファションとして売っていたとしても着たくないようなダサいものものばかりだったんです。それで、入院中でも動きやすいといったらジャージしかなくて、それを着るのがいやだという気持ちがあって、外に行く時は無理してでもジーパンをはいていました。
ジーパンでもはきたくてもはけない人がいます。お尻の感覚が僕もないんですが、ポケットの分厚い縫い目がお尻にこすれて、気がつかないうちに床擦れのような状態になってしまうんです。感覚がないから傷が出来ても気がつかない。逆にそれがすごく恐いんですよね。ばい菌が入るとどうなるかわからない。
僕の母がもともと洋服のリフォームの仕事をしていたので、何かと言えば直してもらえる環境にあったんですけれど、普通だと家庭でできるリォームにも限界があって、ジャージはできるけれど普通のズボンはできないとかいろいろあると思うんです。友達もジャージで出かけるのはいやだと言っていたし、それだったらみんなのためになれたらなあ、と思ってそういう仕事をしたいな、と。そこで僕のアイデアと母のアイデアをあわせて、まずジーパンの製造販売を始めました。
僕が考えた商品を既製品として売っているのもあるし、自分で買って来た好きな洋服をリフォームすることもできます。ブランド品でもなんでもその人の状態にあわせてリフォームできます。洋服だったらなんでも考えてアイデアを提供できるし。でもそれは、別に変わったことをやっているんじゃなくて、洋服を人にあわせるなんて当たり前のことじゃないですか。健常者で当たり前の事が、車椅子になったというだけのこと。でもユニバーサル・ファッションでそれをやる所がなかったんですよね。それをやることで、一人でも外に出るきっかけになるんだったら、と思いました。
今日はいている僕のジーンズも、見た目は普通のリーバイスの既製品です。それを、社会の窓のボタンをファスナーにして上げ下げしやすくしたり、脱ぎやすいようにファスナーの縫い目を通常のジーパンよりも下まで切り込んで大きく開くようにしたり。 既製品との一番の違いは、既製品はあくまでも立った状態の見た目で作っていますけれど、座った状態だと当然お尻の部分が突っ張って窮屈な感じになるじゃないですか。そういうのも座った状態にあわせて後ろ半分の方をサイズアップにすることで、座った状態を常に楽にしています。 僕は見た目を既製品から変えたくないので、見えない部分で工夫をしています。さっき話したお尻のポケット部分もフラットになっています。
今まで既製品を着ることができないと思っていた人が、それが可能なんだと知ってもらえると僕はうれしい。
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バリアフリーとは
車を運転するようになって外に出るようになると、怪我をする前に気がつかなかったことに気づきました。一番気になるのはちょっとした段差です。歩道に切れ目はスロープ状になっていて、いかにもバリアフリーのように見えますけれど、実は 2 〜 3 センチぐらいの段差があって、そのたった 2 〜 3 センチの段差さえなければもっと楽なのにと思います。なんでここまで削るならちゃんと完全にフラットにしないんだと思います。今はその程度なら自分でも越えられますけれど、指が使えなくて手首で車椅子を押しているので、最初はその 2 〜 3 センチを越えることが大変でした。
段差がきつい所はまわりの人に頼むようにしています。電車を乗り降りするのも駅員さんが来てくれないとだめなんですけれど、来てくれない時はまわりの人に「すみません」って普通に頼むようにしています。もう慣れちゃいました。一番遠くまで一人で行ったのは、鈴鹿サーキットです。電車で行きました。一番最初に一人で移動したのは病院から家までですね。家族にも誰にも言わずに勝手に帰っちゃいました。
道とか町とか見てもバリアフリーって名前は使ってても、普通の道でも大変なことはあります。障害の度合いにもよるんですけれど、同じ車椅子でも腕の力に問題がない人なら越えられる場合でも、例えばホテルや店がバリアフリーって言っていても、床そのものがフラットなだけで、絨毯を敷いていたら僕のように手首で車椅子を押すような動かし方をする人には結構大変です。 今日ここに来るまでに何個段差があったかって考えると、バリアフリーって宣言して宣伝文句にしていても、実際はそうじゃない所がほとんどです。段差をなくして坂道を作ったらどこでも上れると思ったら大間違いですよ。
僕が一番感じるのは、バリアフリーって店は言ってて、その店事体が完璧だったとしても、一歩外にでた途端に全然バリアフリーじゃないわけですから、そこにどうやって行けばいいのってことになりますよね。 普通の歩道だって、健常者の人はなかなか気づかないのかもしれないけれど、水はけのためにほとんどの道が傾いているんです。サイドが下がってるだけで車椅子だとまっすぐ進むのも力加減が左右変わってきてしまいます。両方の手が均等に力を使える人良いけれど、そうでない人は前に進むのも大変。道は平らでも全然バリアフリーじゃないんです。町に行くと感じるのは、中は良くてもそこまで行くのにどれだけの段差と傾いた道路と坂があるかということです。
そんなものを全部直してたらキリがないことで、それよりも町に車椅子の人がいることが当たり前ということをわかってもらうこと、それが重要なんだと思います。
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理想の福祉車
僕が今の時点で考える理想の福祉車は、車椅子ごと運転席に乗れる車ですね。車椅子から座席に移らなくても運転できて、なおかつ安全な車があれば。実際そういう車は日本にはないけれど、アメリカにはあるんです。
たまたま知り合った方で、その車を自分で輸入して乗ってる方がいるんです。ベースは確かクライスラーの小さな車でしたね。自分でボタンを押すとサンダーバードみたいにグワーンとドアが開いて、それがガルウイングで。スロープも自動的に出てきて。すごいですよ。ビックリした。たぶんクライスラー・ジャパンの人に聞いても知らないんじゃないかな。アメリカのクライスラーが作っている福祉車とも違うから、たぶんクライスラーをベースに専門の改造業者が作ってるんでしょうね。ちゃんとアメリカではクラッシュテストなどの検査も通って認可されている車だと聞きました。かっこいいですよ。
今の僕にはそれが理想なんですけれど、それだけの改造ならば値段も結構したんだろうなあ。今度このwebで取材にいきましょうよ。その彼と僕は同じぐらいの障害のレベルなんで、欲しいなーって思いました。でも彼と出会った時は、ちょうど医者に車の運転なんて無理だと言われていた時で電車も自分では乗れない時期だったんで、もしその時その車を買って乗っていたら、今ここまで動けてなかったのかな、とは思いますね。一人で電車に乗ったり移動したりしないで、その車にばかり乗っていたでしょうから。
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このWEBで伝えたいこと
伝えたいことは、車椅子が世の中にいるのが当たり前という世界を僕は求めているし、僕が何か特別なことをしたくてやるということではなくて、自分が回りを見回した時に、自分がいることが当たり前だという環境にしたい。当たり前に外に出られること。一歩引いて何かをやるよりも、当たり前に生活したい。
新たなチャレンジとしては、悪いところを伝えたいかな。 車椅子の人って本当はこうしたいと思っているんだけど、公に伝えられないことを伝えたい。信号機の段差だって健常者の人が普通に生活していたら絶対わからない。そういう所を僕が指摘して伝えられたらいいな、と思う。ひとりでも多く気づいてくれたらうれしいし、そういう段差で立ち往生していたら手伝ってくれる気持ちになってくれたらいい。それが当たり前のことになったらいいと思うな。
レースだってやりたいですよ。けがしたから出来ないなんて思いたくないし、今はだめでもこの先どんな手術が可能になるかもしれない。目標の F1 ワールドチャンピオンというのはとっておいて、今はちょっとだけ人より遠回りしているかな、と思うだけです。 ただ、その目標にたどりつくまでに、今ボーッとしているのはいやだから、今できること、例えばこうやって伝える仕事もやっていきたいと思っています。
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