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tab_star2006/01/17tab_end編集部より
1987 年のニューヨーク PART 1
BACK TO ’80
 僕がニューヨークで生活したのは 1987 年。当時のアメリカは日本にくらべてはるかに不景気で、不景気ということは治安が良いとは言えない渾沌とした時期でした。ちょうど AIDS という病気が注目されはじめ、情報がまだ少なく不安に包まれていた頃でもあります。
 そんな当時のニューヨークの話をニューヨークカルチャーの全盛期の 80 年代初頭と、テロに揺れた 21 世紀の話とともに数回に分けてしましょう。ただしあくまでも個人で見聞きし体験した話です。データをもとにした文化論ではなく、個人的な情報をもとにお話しますので、その点は差し引いてお読みださい。まずは 80 年代初頭のニューヨークです。この体験があったからこそ、ニューヨークでの生活にあこがれたのです。

文:津島健太(VividCar.com 編集長)
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tsushima-SS.jpgicon_home津島健太
[VividCar 元編集長・フリーライター]
現在は「港未来シンジケート」代表としてのインディーズレーベルやイベントプロデュース業と平行して、JMS日本モータースポーツ記者会、ナンバー付きVITZレース1000c.c.CUP 代表、vivid car .com 編集長、作詞家、旅のライター等々イカゲソ並みの数の鞋をはいている。
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ニューヨーク

80 年代初頭のニューヨークカルチャー

初めてニューヨークを訪れたのは 80 年代の初頭。 20 才そこそこの頃です。 10 代の頃はカリフォルニアには何度か行った事がありました。 82 年にはサイモン&ガーファンクル、 83 年にはダイアナ・ロスのセントラルパークコンサートが開かれ、僕は 1/600,000 の目撃者でした。ダイアナ・ロスの時は大雨と雷のため途中で中止となり、そのまま暴動となって多くの逮捕者が出たものです。 80 年代初頭のニューヨークは特に若者たちのヒップホップカルチャーが輝かしい時代でした。当時の若者文化はミックスカルチャーと呼んでいました。ロスやサンフランシスコのさんさんとした陽射しに照らされた、ぼやーっとしたアメリカしか知らなかった僕には、まさにそれはカルチャーショックそのものでした。

音楽では、ラジオから流れてきたダンスミュージックに衝撃を受けました。ラップそのものもまだ日本では珍しかったのですが、その合間に聞こえるキュッキュッとレコード盤を引っ掻くような音。「なんだこれは !! 」当時から FM の世界で仕事を始めていた僕は、それが何かはわからないけれど、とにかく斬新で、かっこよく、人に聞くとスクラッチというテクニックらしいことを知って、さっそく、その時流れていたマルコム・マクラーレンの『バッファロー・ギャルズ』というレコードを手に入れました。マルコム・マクラーレンと言えば SEX PISTOLS のプロデューサーじゃないか ? なんなの ? これ ? パンクじゃないけどパンキッシュなダンス ? と興味はつのるばかり。「そんなのクラブに行けばみんなやってるよ」と友人から聞いて、今度はナイトクラビング。まだ日本ではディスコと呼んでいた時代です。

当時の NY のクラブは好景気に支えられた巨大ディスコの時代です。そのはしりと言えるのは 14TH STREET の PARADIUM 。その後、教会を改造した SAINTS や、閉鎖された地下鉄の駅を改造した TUNNEL 、数多くの有名 DJ を輩出した FUN HOUSE など、 2,000 人以上が踊れる巨大ダンスフロアやアートに満ちた空間が存在しました。

ニューヨーク

ニューヨーク

MIX CULTURE の仕掛人

当時ニューヨークでは、ジョン・レノンやアンディ・ウォーホールの次の世代とも言えるアーティストたちが街に溢れていました。地下鉄やビルの壁に描かれたグラフィティアートも、まだ芸術性が高くニューヨーク市も黙認していた時代でした。数年後には日本同様、ただの落書きとなってしまい、地下鉄の車両そのものをアルミに変更しなければならなくなりましたが。

当時のニューヨークダンスシーンの仕掛人にイアン・シュレイガーという男がいます。芸術家でありプロデューサーである彼は、『夜の帝王』と呼ばれたルドルフという男と組んで、パラディアムやトンネルなどのクラブを次々に立ち上げていきました。彼らは、ただ単に流行を作りだしたわけではありません。先駆けとなったパラディアムは 14 丁目に作られましたが、 14 丁目というのは、ミッドタウンとダウンタウンの境界線と言える場所です。それ以前からダウンタウンにはアーティストや若者が集まる小さなクラブが存在しましたし、ミッドタウンには白人の富裕層やサラリーマンを狙った STUDIO 54 という有名なディスコがありました。ブロンドとスーツ姿が集うサタデーナイトフィーバーなディスコです。イアン・シュレイガーは MIX CULTURE というコンセプトを提言し、決して混じりあうことのなかったこの 2 つの層を 14 丁目の境界線で MIX させることによって、新たなカルチャーとビジネスチャンスを自然に産み出そうとしたのです。

彼は、今まではセキュリティにすぎなかったドアマンに絶対的な権力を与えました。例えフロアが一杯になっていなくても、ドアの前で入りたがっている客を並んだ順ではなく、ドアマンに選択させたのです。例えば黒人が 5 人は入れば白人を 5 人。見るからに裕福そうな連中が入れば、その反対の人間を、と、今までのクラブとは違い、列を作らせずにドアの前に群がらせ「はい、そこの 5 人入っていいよ」「次はそこの 5 人」とドアマンに指名させました。それによって人種やタイプの偏りをなくしたのです。また、ただ単にダンスフロアとバーではなく、個室やソファなど会話のできるスペースも充実させました。その試みは成功し、次々と新しい文化が創造されました。才能ある芸術家はロビー活動にも成功し、スポンサーを獲得。アンダーグラウンドな文化が一気にメジャーに躍り出るきっかけもクラブから発信されました。例えば、ある日彼らのもとに「僕のグラフィックアートを見て欲しい」と売り込んで来た若いアーティストがいました。彼もまたビルの壁などに表現してきた無名のアーティストでした。何度断ってもしつこく来るので根負けし「わかったからそこの壁に書いていいよ。ただしノーギャラね」とクラブの壁一面に書かせました。それを見たアップタウンのスポンサーに「おもしろい」と言わせたのが、世界的なアーティストとなったキース・ヘリングです。

一気に才能が開花したのは、もちろんアートだけではありません。ただ音楽を選曲してつなぐことに飽きた DJ は、スクラッチという画期的なリズム表現法を産み出しました。 1970 年代後半頃からサウスブロンクスの DJ がはじめたスクラッチ DJ をマンハッタンに呼び寄せ、メジャーに展開。その後 DEF JAM レコード等に発展していきます。また、 1973 年よりサウスブロンクスを中心とする DJ やダンサーなどの黒人やヒスパニック系のアーティストは後にラップの神様と呼ばれるアフリカ・バンバータやスクラッチ DJ の第一人者グランドマスター・フラッシュなどを中心に結束。 THE ZURU NATION を結成し、ギャングにあけくれる若者たちの更正にも大いに役立ちました。そのアッパーイーストの文化をもアップタウンのホワイトカラー層とミックスカルチャーさせたことで、 NY のクラブシーンは一大エンターテイメントと化しました。

音楽が変わればダンスも変わります。もともと黒人の子供たちの遊びだったブレイクダンスを、ヒップホップミュージックにカルチャーミックスさせたのも彼らのアイデアです。ストリートの遊びを音楽と融合させて、クラブのステージでパフォーマンスショーとして成立させたのです。つまりブレイクダンスはダンスミュージックによって成立してのではなく、ショーとして仕掛けられたもので、その後スクラッチはハービー・ハンコックの”ROCK IT”により、ブレイクダンスはマイケル・ジャクソンによりグラミー賞の舞台で世界に伝えられる背景には、こんなスタートラインがあったのです。

ニューヨーク

MADONNA

当時 NY を訪れていた僕は、たまたま手に持っていた NY のカルチャー本が縁で見知らぬ男に声をかけられ(その本にその男が紹介されていたという偶然)、 NY のクラブシーンのど真ん中になんの苦労もなく入り込む幸運に恵まれました。そして、後に数多くのメジャーな作品を残す DJ や『夜の帝王』たちと知り合いになれたのです。その中には、ファンハウスやセインツでパフォーマンスを見せていた女性がいました。自分で作ったカラオケをバックに踊りながら歌うこの女性アーティストは MADONNA という名前で、後のファンハウスの DJ 、 JOHN ‘JELLYBEAN’ BENETEZ の恋人でした。

僕の記憶では、彼女のデビュー曲となった”Everybody ”はその時にまったくデビューと同じアレンジで歌っていました。プエルトリカンの男性 2 人とのパフォーマンスも当時からのものです。彼女はビルの屋上に建てられた小屋に住み、日本人的に言えば『傷だらけの天使』の住まいでした。スーパースターになってからの話で、この時期は「ポップコーンとコーラだけで飢えをしのいでいた」という話が有名ですが、ポップコーンとコーラを買えば 2 ドルぐらいと考えると、 2 ドルもあればホットドックなら 2 本は食べられましたし、チャイニーズデリでかなりたらふく食べられたはずです。僕自身、 2 ドルぐらいで食費を済ますことは珍しくなかったので、飢えをしのぐというのは虚像で、たまたま好きだったということではないでしょうか。実際、テビューした時とは考えられないぐらいマドンナ自身ふくよかな体型で、踊るとお腹や腕の肉がタポタポ揺れていました。公開できませんが、当時のパフォーマンスの VTR を僕は今でも持っています。

MADONNA は当時の仲間をすごく大切にする、ある意味とても義理堅い人。デビューしてスーパースターになった後も、当時のクラブのドアマンをボディガードに雇ってあげたり、ダンサーもヒスパニック系の昔の仲間にこだわって使っていた時期もあります。 87 年に NY に住んだ時、ボディガードとなっていた男と会うことができましたが、彼女への感謝の気持ちを延々と話してくれました。なぜならば、 MADONNA のホディガードだったというキャリアは彼のその後のキャリアにも大きな影響を与えられたからです。

VTR を持っていると書きましたが、 MADONNA が初来日することになった時、 NY の仲間を経由してマドンナからの伝言が届きました。当時の仲間が AIDS にかかってしまい、その救済のためにこの VTR を日本のメディアに高く売り込んで欲しい、ということでした。画質の悪いその VTR は結果的には一部メディアと代理店に見せたものの、主催者側の事情もあって公開はされませんでしたが、今も僕の手許にあります。とても本人が公開したいと思えない時代のパフォーマンスですけれど、それでも仲間のためにそういうことをしようとする彼女の想いに感激した記憶があります。

ニューヨーク

イアン・シュレイガー、その後

NY クラブシーンの仕掛人、イアン・シュレイガーは次々と成功をおさめ巨額の富を得たものの、脱税で逮捕されるという余談があります。ただ、当時の NY は世界に名だたる犯罪都市。刑務所も飽和状態で、彼のような暴力犯罪ではない実業家は、パートタイムで刑務所からマンハッタンに働きに行っていいよ、と日本では考えられないようなシステムで服役中も『夜の帝王』ぶりを発揮したという裏話を聞いたことがあります。その後 90 年代になるとデザイナーズホテルに着手し、最近では五つ星高級ホテルであるグラマシーパークホテルをプロデュースしたことで有名です。

とにもかくにも刺激に満ちあふれていた 80 年代初頭の NY 。佐野元春の『 VISITORS 』というアルバムも、ちょうどこの刺激的な時期に滞在した中から産まれたものです。この頃は行ったり来たりの NY 滞在でしたが、これをきっかけに、いつかはこの街に住んでみたいという思いが芽生えました。そして 1987 年、その夢は実現するのですが、そこはまったく違う顔の NY だったのです。

(PART 2 に続く)
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Keith Haring
Keith Haring
http://www.haring.com/
1958 年:ペンシルバニア州レディングに生まれる。
1978 年:ニューヨークに移住。その後、ニューヨーク市内の地下鉄の広告看板にチョークでドローイングを描き始める。
1986 年:ニューヨークのラファイエット通りに「ポップ・ショップ」を開店。
1990 年:国連の「エイズ防止・世界年」記念切手及びリトグラフを制作。同年、エイズにより死去。享年31。
50 GRAMERCY PARK NORTH
50 Gramercy Park North at Gramercy Park Hotel
http://50gramercyparkno...
This is the official web site of 50 Gramercy Park North - Residences at the New Gramercy Park Hotel New York. Ian Schrager's First Residential Project.
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Madonna
http://www.madonna.com/
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ワーナーミュージックジャパンによるマドンナ WEB サイト
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