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tab_star2006/05/22tab_end編集部より
1987 年のニューヨーク PART 2
1987 年のニューヨーク
 僕がニューヨークで生活したのは 1987 年。当時のアメリカは日本にくらべてはるかに不景気で、不景気ということは治安が良いとは言えない渾沌とした時期でした。そんな当時のニューヨークの話をニューヨークカルチャーの全盛期の 80 年代初頭と、テロに揺れた 21 世紀の話とともに数回に分けてしましょう。ただしあくまでも個人で見聞きし体験した話です。データをもとにした文化論ではなく、個人的な情報をもとにお話しますので、その点は差し引いてお読みださい。そうやって書いたパート 1 は 1980 年代初頭のニューヨークでした。ヒップホップカルチャーの開花に遭遇した僕は、「生活がしたい」という以外何の目的もなく NY に降り立ちました。

文・写真:津島健太( VividCar.com編集長 )

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tsushima-SS.jpgicon_home津島健太
[VividCar 元編集長・フリーライター]
現在は「港未来シンジケート」代表としてのインディーズレーベルやイベントプロデュース業と平行して、JMS日本モータースポーツ記者会、ナンバー付きVITZレース1000c.c.CUP 代表、vivid car .com 編集長、作詞家、旅のライター等々イカゲソ並みの数の鞋をはいている。
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僕がニューヨークに行った理由

 以前コラムにも書いた通り、学生時代から音楽の仕事をはじめた僕は、22 才になって「大学は勉強をするには最高の場所だ」とやっと気づき、「でも勉強をする以外には、いる意味のない場所だ」と悟りました。就職試験を仕事の合間にスケジュール調整して受けにいき、面接官が偶然前夜仕事していたクライアント担当者だった、という変な経験もしました。でも結論としては、すでに 4 年も経験した仕事を捨てるのはもったいないですし、根拠のない自信から自分の会社を興してフリーで活動することにしました。その直前に行ったのが、PART1 で書いた 80 年代初頭のニューヨークだったのです。就職しなかったことに少なからず影響を与えていたと思います。

 おかげさまで仕事は順風満帆。アルバイトからフリーになった途端に収入も仕事も倍々ゲームで増え、25 才になった時には TV ラジオのレギュラー番組 17 本と、とんでもない事態になっていました。フリーの恐さから仕事を断れなかったのです。25 才から 27 才まで休みは年に 2 日程度。それも過労から倒れて玄関で夕方まで気を失ってた、という、休みというよりも穴を開けたというだけで、スケジュール上は 1 日もオフはありませんでした。レギュラー番組だけで週 3 日完徹のスケジュール。つまり 2 日に 1 日しか寝ないで、3 年間働き続けたのです。体力にはそこそこ自信のあったのですが、精神的にかなりまいってしまい、気がつくとベットで頭を抱えて「ウーッ」と唸っていたり、「このままでは危ない、という自覚症状が出ていました。そんな時に考えていたのが「入院したい」(人間そう簡単に倒れないものです)と、80 年代初頭に刺激を受けた「ニューヨークに行きたい」。完全に現実逃避です。20 代ならまだやり直しもきく、と思っていました。半年かけて仕事の整理をし、1987 年 3 月末、ニューヨークに到着しました。

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水と安全はお金で買え

 80 年代初頭は好景気にも支えられて、ヒップホップカルチャーをはじめ想像的な文化が次々と芽生えていたニューヨーク。80 年代後半になって、全米が不景気となり、殺伐とした雰囲気が漂っていました。マイアミシティ、ウエストロサンゼルスと並んでマンハッタンは全米 3 大犯罪都市として数えられていました。ロサンゼルスやマイアミは「この通りから向こうは行っちゃだめだよ」とある程度線引きがされる町でしたが、ニューヨークの場合は、危ない時間はどこも危ない線引きのない町。例えば観光客が多く宿泊するミッドタウン。一番安全だと誤解されがちですが、深夜になるとカモとなる観光客しかいなくなるわけですから、むしろ学生などの人通りの多いダウンタウンよりも危険度は高まるわけです。

 今では誰もが地下鉄に乗りますが、当時は夜 8 時を過ぎたら地元の人でも乗らない方が良いと言われていました。地下鉄の駅のホームには、どの駅にも黄色く囲われた 3 メートル四方ぐらいの狭いゾーンがあって、その場所だけは「警察官が監視しているスペース」と書かれていました。じゃあ、それ以外の場所で強盗にあってもしょうがないわけ?と言いたくなります。駅は下水の匂いが充満し、冬はホームレスであふれていました。そして 20 センチぐらいある巨大ネズミがホームを横断することも日常茶飯事でした。かつてアートだった壁もただの落書きだらけです。

 タクシーならば安全と思いきや、深夜のタクシーは平気でビールを助手席に置いていたり、観光客と思えば遠回りをしたり、どう見てもラリっていたり、かなりスリリングなドライバーは珍しくありませんでした。ロバート・デ・ニーロ主演の「タクシードライバー」は 76 年の作品ですが、まさにあんな雰囲気でした。深夜の交通手段としては、バスが一番安全でした。

 ただ、バスも地下鉄も 24 時間走っていますし、渋滞が当たり前のマンハッタンでは最も有効な交通手段です。トークンという(当時) 1 ドルの専用コイン 1 枚でバスにも地下鉄にも乗れ、地下鉄の駅でトークンは買うことができます。バスは運転手からトランスファーチケットをもらって 1 回までは乗り継ぎもできますし、地下鉄は改札を出るまでは何度乗り継いでも 1 ドルで行けます。地下鉄とバスの使い方を覚えればタクシー不要でかなり移動することができるので大変便利です。

1987年_ニューヨーク_01

 「水と安全はお金で買え」が常識。物価の高いニューヨークではアパートメントの家賃は日本とたいして変わらず、月 1000 ドル以下だとオートロックが壊れ、1000 ドル〜2000 ドルだとオートロックつき、2000 ドル以上払うとドアマンがつく、というだいたいのラインがありました。僕の住んだアパートメントは月 800 ドル。格安だけどオートロックはついている、という条件でした。場所は 10 ブロックぐらいでハーレムという微妙な位置でした。

 それでも仕事を捨て、合コンも王様ゲームも一度も経験しないままの仕事ばかりの 20 代を振りきり、「青年は荒野をめざす年じゃない」と言う周囲の反対も押し切って日本を出て来た僕は、不安も刺激のうちでした。
 ニューヨークに行く前に決めていたことがありました。「仕事はしない」「職業をあかさない」「学校には行かない」。つまり留学生でもビジネスマンでもなく、「生活者」になりたかったのです。
 水と安全はお金で買え。この言葉の意味をこのアパートで実感するのにそんなに時間はかかりませんでした。

 僕の体験した 1987 年のニューヨークは、取材では得られないニュートラルな行きあたりばったりのものです。次回 PART3 では、当時ニューヨークが抱えていた闇の部分、犯罪と病気についてお話しましょう。

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