file505
vivid_mark_s
ストーンヘンジオートメカニカ
bu_homebu_weeklybu_indexbu_back
Page 1/1 |
vividsearch2
search_car2
search_article2
tab_star2002/05/16tab_end輸入車事始め
輸入車事始め Vol.10
輸入車事始め Vol.10
文:前屋 毅
tab_face
前屋 毅_プロフィール_写真Sicon_home前屋 毅
[フリージャーナリスト]
 出すべき結論があるのかどうかも分からずにこの連載をスタートする。シックリいく結論が出ることを祈りながら連載を続けることになった。
記事ブロック_画像_写真
明治時代の銀座の賑わい
クルマ伝来後の自動車事情

 多くの日本人が初めてクルマを見たのは、1903(明治 36)年に大阪で開かれた第 5 回内国勧業博覧会でのことだった。3 月から 5 月までの 5 ヶ月間で延べ 530 万人もの入場があり、それだけの人がクルマの存在に驚いた。ここから、日本におけるクルマ事情も大きく変わっていくことになる。この連載でも博覧会以後の変化を追っていくつもりだったのだが、その前に、どうしても触れておかなければならないことがあるのに気づいた。
 1898 年に日本に「パナール・ルヴァッソール」が初渡来してから第 5 回内国勧業博覧会までのあいだ、日本のクルマ事情は空白だったわけではなかった。この間にも、無視しがたい出来事がいくつもおきていたのだ。
1937(昭和 12)年 10 月発行の『日本自動車発達史(明治編)』(尾崎正久著)に、次の様な記述がある。
「モーター商会は経営難のため翌 35 年オートモビル商会と改称して新資本を加へて宣伝に大童と
 なつたが、僅かに東京銀座の亀屋、日本橋三越其他少数販売したに止まり、しかも亀屋も三越も、
 3 ヶ月を費やして漸く運転をし得る者を養成したという状態であつた」

 この「モーター商会」とは、1901(明治 34)年 11 月に設立された、日本人による初めての自動車販売会社である。この会社とオートモビル商会についても、いろいろ興味深い話や不明の部分があり、近いうちに書いていこうと思っている。
記事ブロック_画像_写真
明治初期の尾張町
初クルマのオーナー

 しかし、まずわたしが気になったのは「亀屋」と「三越」のほうだった。両社がオートモビル商会からクルマを購入したのは、第 5 回内国博覧会が開かれる前のことである。まだ多くの日本人がクルマを見たこともない時期に、興味を示した企業があったことだ。なぜ興味をもち、どんな目的で購入したのか、どうしても知りたくなったのだ。

 日本橋三越は、いうまでもなく、現在も東京・日本橋に店舗をかまえる百貨店の老舗「三越」のことである。その前身は呉服商であり、クルマを購入したといわれる 1903(明治 36)年ごろも呉服商としての商いをおこなっていた。
 では、「東京銀座の亀屋」とは何者なのか。三越のように現在の社名が、すぐには浮かんでこない。試しにインターネットで検索してみるが、それらしいところはヒットしてこない。当時としては珍しいクルマを購入するくらいだから、景気はよかったに違いない。

 それなら、三越と同じ呉服商か?と単純に考えてしまった。そして「銀座」と「呉服商」をキーワードにしてインターネットを検索してみると、1851(嘉永 4)年ごろに描かれた「東都尾張町繁花の図」(布袋屋)なる錦絵がみつかった。その解説には次のようにあった。
「おめでたい名前の呉服屋が並んでいた尾張町は、今の東京銀座 4 丁目付近である。尾張町二丁目
 西側北角から南にかけて、右角が布袋屋、左角が亀屋、その隣が恵比寿屋である」

 描かれているのは布袋屋だけだが、この解説を読むかぎりでは、亀屋も布袋屋におとらぬ勢いだったに違いない、と仮定してみた。錦絵の題材となるようなところと肩をならべる店なら、明治のころにも三越と同じようにクルマを買うほど栄えていたとしてもおかしくはない。やはり、クルマを購入したのは銀座にあった呉服商・亀屋だったのだろうか。
 それを確認するために、東京都中央図書館で1958(昭和 33)年発行の『中央区史』を調べてみた。その第2編「近世」の第 8 章「商工業」の部分に、こんな記述があった。
「京橋の両替町に続く尾張町に角店を張つていたゑびす屋・布袋屋・亀屋の三軒は越後屋・白木屋
 と並称された店で、布袋屋も亀屋もともに正徳ごろからの店といわれており」

 やはり、越後屋におとらぬ老舗だったのである。しかし、これを見つけてはみたものの、喜ぶ気にはなれなかった。これが書かれていた第 8 章の前、第 2 章に次のような記述を見つけていたからだ。
「尾張町二丁目の両側は天明ごろ亀屋・夷屋両呉服店の占めるところであった。盛大な両家の間に挟
 まつて九尺間口の砥石屋があつて、両家買収に一向に応ぜず、
  『両家ともさばかり広きを猶あかず狭しと愁ひ給はば、外に広き
   地所あるべければ引移り給へ、両家のあきたる地所は 我買受ん』
 等と空嘯いていたが、その頑固者の砥石屋も、亀屋もいつか退転し、ただ夷屋のみが栄えていると
 『神代余波』の著者は記している」

 この記述によれば、すでに亀屋は「退転」してしまっていることになる。そこで、もういちど第 8 章の部分を注意深く読み返してみると、先に引用した部分には「角店を張つていた」と過去形になっており、さらに「恵比寿屋は後に島町組として御為替御用に活躍していたことは著名である」とあるだけで亀屋についての消息はない。
 ここから察するに、呉服商・亀屋は一時は栄えたものの、いつか衰退してしまったのではないだろうか。銀座は呉服商が軒をつらねた街だったが、栄枯盛衰も激しかったと複数の本に書かれている。栄えた亀屋でも、いつか姿を消してしまっていたとしても不思議ではないのだ。

 こうなってくると、モーター商会(またはオートモビル商会)からクルマを購入した亀屋は「呉服商・亀屋」ではなかったらしい。では、問題の亀屋は何者だろうか。ふたたび出発点に戻ってしまった。
「銀座の亀屋」とは何者?

 困ってしまい、あらためて中央図書館でクルマの歴史にかんする本を探していると、中央図書館の書棚に『自動車の発達史 〜ルーツから現代まで〜 下』(荒井久治著)を見つけた。あまり期待せずに開いてみると、モーター商会からクルマを購入したのは「京橋の食料品店の亀屋」とあった。呉服商ではなく、食料品店だったのだ。
 区史の置かれている部屋に戻り、今度は1942(昭和 17)年 3 月発行の『京橋区史』を調べてみた。中央区は日本橋区と京橋区が合併してできあがったもので、より詳しいことは『京橋区史』にあるだろうと思ったのだ。そこには、次のように書かれていた。
「八丁目の角にあつて、今の資生堂のところには亀屋があつた。亀屋は本所に生れた杉本鶴五郎が
 はじめた。彼は明治三年洋酒洋食料品を開業したといふから我国では恐らく最も早いと云へる」

 明治初めに開業して成功し、しかも洋酒洋食料という時代の先端をいく商売をしていたというのだ。クルマという最先端の乗り物に興味をしめしても当然だったともいえる。明治期に三越とならんでクルマを購入したのは、この洋酒・洋食料品をあつかっていた亀屋に違いない。

 ただ、その購入したクルマを何に使い、その後にクルマはどうなったのか、そもそも亀屋自体がどうなったのか。それは、いまの時点では不明である。亀屋の正体を明らかにするのに重要な役割をはたした『自動車の発達史』からは、新たな疑問も生まれてきた。そうしたことをふくめて、第 5 回内国勧業博覧会から少し時間がもどってしまうが、次号で触れてゆきたい。
<以下、次号>
tab_data_b
BMW_745Li_SBMW 745Li
DAIMLER_Daimler_SDAIMLER XJ
recommend
サマリー情報_サムネール
ハンプトン・コート宮殿
ロンドン郊外にあるハンプトン宮殿はヘンリー 8 世のお気に入りとして有名。
広い庭園は一見の価値あり。是非、お天気が良い日に出かけたい。

チューリップ
風車とチューリップ
日本の皆さんがオランダといって思い浮かべるのが、風車とチューリップ。はてさて、私も初めてオランダに渡り、それだけは外せないと思いまして、ドライブしました。もう10年近く前の経験ですが、懐かしさにまかせて書きましょう。
サマリー情報_サムネール
韓国の食べ方
初めての韓国。すべてが物珍しいのだが、日本でたべる韓国食とどうちがうのだろうか。韓国食文化のご紹介です。
tab_note
ご意見をお寄せ下さい :
 この連載は結果が分からないまま開始致しました。情報が非常に不足しておりますので有力な情報をお持ちの方は是非、VividCar.com 編集部までお寄せ下さい。
Copyright (C) 2001-2007 VividCar.com. All rights reserved.
bu_homebu_weeklybu_indexbu_back
Page 1/1 |