 |  |  | | | Le Mans 24 h | | 連載第一回 |  | これから 6 回にわけてル・マンについて書いて行きます。
耐久レースの世界では最も有名なこのイベントは、時代が流れても「ル・マン」であり続ける特異なイベントでもあります。1983 年に初めてこのイベントを取材したその時期が近代耐久レースが始まりでした。それ以後、国産メーカーが大挙して参加し始めたり、 1950 年代、1960 年代に活躍したグレート・マークスが再びその威信をかけてエントリーしてきたり、とても面白い時間が流れます。 |  | 文:高橋二朗
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|  |  |  |  |  |  | 高橋二朗 [フリーランス・モータースポーツ記者] |  |  |  | | 編集長の永山氏によってインターネットの世界を知った。あれから 10 年。いまや、インターネットなしには仕事ができないまでになった。再び永山氏がモゾモゾと動き出すというので、長いもの(永山もの)に巻かれることにした。執筆させてもらいつつ、楽しませてもらうことにした。よろしく。 |  |
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 |  |  |  |  |  | 最終コーナーからグランドスタンド前を望む。 長時間露光による光跡。 |  |
|  |  | 近代的な耐久レースの始まり
耐久レースの代名詞の様に言われてきたル・マン 24 時間レース。モータースポーツにあまり興味のない方々でも「ル・マン」の名だけは耳にした方が多いと思う。フランス・パリから南西に約 250 キロのところにあるサルテ州の州都ル・マン。この田舎町で初のフランスグランプリが開催されたのが 1906 年のことだった。そして、この町を舞台にしたモータースポーツイベントは 24 時間レースへとスタイルを変えて 1923 年から現在に至っている。
しかし、このレースが日本人に直接的な関係を持ち始めるのは 1970 年代からのこと。日本から初めてこのイベントに参加したのが 1973 年だったのだ。極東の端っこからヨーロッパへ向けてプライベートチームが果敢にチャレンジした。その後 10 年以上して日本の自動車メーカーがこぞって参加し始めることになる。そのきっかけとなったのが 1980 年代に耐久選手権のレギュレーションが大きく変わったことによる。それまで、無制限に使用できたレース中の燃料が、レース距離によって使用量規定が加えられたのだ。つまり、レースは燃費走行を強いられることとなったのだ。日本の自動車メーカーは、新時代の燃費レースを「先行開発」として参加するための大義名分とした。耐久レースに参加するマシンのカテゴリーは、グループ C という。そしてレース中に使用できる燃料量によってグループ C とグループ C ジュニアに分かれた。やがて呼称がグループ C1 とグループ C2 となって 24 時間レースで C1 が使える最大量が 2,550 リッター、 C2 が 1,650 リッターだった。
さて、この 1980 年代から近代耐久レース、スポーツカーレースが再び脚光を浴びることになる。世界耐久選手権レースが行われることとなり、そのハイライトイベントがこのル・マン 24 時間レースだったと言ってよい。しかし、それまでの全開走行で 24 時間を走破するレースに比較して「燃費」を考えながらの走行は、当初一部のファンからは不評であったのも事実。だが、それも新レギュレーションが施行されてすぐ翌年からそれまでの平均時速と走破距離を上回る性能を発揮するマシンの登場によってレースの面白さは損なわれることなくなった。 |
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 |  |  |  |  | 1988年のポルシェ 962 C ワークスチーム。 ドライバーはシュトゥック / ルドヴィク / ベル 予選はポールポジション、決勝は 2 位に入った。 |  |
|  |  | ル・マンの主役達
「ポルシェ 956 / 962 C」 スポーツカーレースの新時代の幕開けとなった 1980 年代。レギュレーションの変更とともに圧倒的な強さを誇ったマシンがあった。国際自動車連盟の新レギュレーション(グループ C )施行と歩調を合わせて開発されたそのマシンが速さと強さを示すのは当たり前と言えば当たり前なのだが、それを考慮しても、そのマシンは世界中で耐久レースのスタンダードマシンとなった。
ポルシェ 956 。同社のモータースポーツ部門があるバイザッハから送り出されたこのマシンは、市販レーシングカーとして大成功を納めた。当時バイザッハの頭脳、ペーター・ファルク博士の下、エンジニアのノルベルト・ジンガーが中心になってこのマシンを作り上げた。その外観はグループ C カーのレギュレーション施行直前、つまり 1981 年に優勝を飾っているポルシェ 936 のフロント周りを踏襲して、そしてクローズド・ボディーに大きなリヤウイングを持つ。第一印象としては決して軽快な感じは受けない。そしてスタイリングも鋭さを感じないのだが、その安定感は、圧倒的だった。耐久レースに必要なコクピットの安全性とドライバーの居住性も考えられた設計は、圧倒的な信頼感を得ていた。たとえば、ピュアレーシングマシンはそのミドシップにエンジンをマウントするのが常識的だが、そのエンジンを冷却するラジエーターの位置にもレース中のドライバーのフィジカル・コンディションを考えたものとなっていた。通常なら最も冷却効率の良いマシンのフロントにラジエーターを配置するのがエンジニアとしても定石のデザインとなる。しかし、そのためにコクピットの脇か下にウォーターパイプをまわさなくてはならなかったり、ラジエーターを通った熱風がコクピット内に回ってきたり、ラジエーター本体から伝導する熱が走行中のドライバーを苦しめることとなる。それを 956 ではコクピットの両サイドにラジエーターを配置することによって他のレーシングマシンに比べて暑さの面でドライバーを苦しめることが少ない。これは、ポルシェが長年空冷エンジン(大量のオイルでも冷却している)でレースを闘ってきたことのノウハウもプラスされているのは言うまでもない。夏前のレース、ル・マンでも日中は年によっては気温が真夏並に上昇してしまい、コクピット内の気温も 60 度近くまでになってしまうことがある。また、フロント部分にラジエーターがないことは、フロントに多少のクラッシュダメージを負ってもカウルのリペアーまたは、交換でレースを続行できると戦略面での強みもあった。
956 は、ドライビングキャラクターでは、弱アンダーステアーを示していた。耐久レースではこの「弱アンダー」がスタンダードなステアリング特性なのだ。オーバーステアーのレーシングマシンほどドライバーの神経をすり減らしてしまうものはない。スプリントレースなら乗り切ってしまうかもしれないが、ことル・マンでは、各ドライバーのスティント(担当)は約 1 時間。ナイトセクションでは 2 スティントを走行することだってある。その走行ではオーバーステアーのマシンなど乗ってられない。だから、弱アンダーのキャラクターが基本となった。
しかし、多くのプライベーターチームの手に渡った 956 は、ニュートラルステアーにするべくモディファイがくわえられることとなる。その多くは、フロントセクションにエキストラウイングを追加したり、エキストラフリップを多用した。
「アンダー」を消すために、ワークスポルシェはどうしたか・・。さすがにドイツのプライドの高いコンストラクターはエキストラウィングを付加してそのスタイリングを崩すようなことはしなかった。 956 の後継として送り出された 962 C は、ぱっと見何が変化したのか分からないマシンだった。基本的なシェイプを殆ど崩すことなく、フロントのセクション全体を数センチ短くしてノーズ先端からフロントウインドウに至る角度を 956 よりも大きくしたのだ、これにとってフロントセクションで得られるダウンフォースを大きくしてアンダーステアーの解消を実現したのだった。
ル・マンの現場でジンガー氏に 956 と 962C の違いを問うても「基本的に同じ」という答えしか返ってこなかった。それを、日に数度か繰り返してやっと [ うるさい小僧だ ] という顔して「ドアからフロントタイヤまでの長さが短いんだ。つまり・・・・」 と教えてくれた。 |
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 |  | Cinema [ Le Mans ] inside
ル・マンを題材にした映画があったのをご存知だろうか。少なくとも 40 代の方でないと記憶にないと思う。なぜなら、その映画が公開されたのが 1971 年のことだったからだ。この映画、原題を「Le Mans」といい、邦題「栄光のル・マン」といった。モータースポーツに憧れを抱いていた少年だった当時は、この題名に心ときめかせたものだったが、今更に考えてみると安易で陳腐にも感じてしまう。モータースポーツを題材とした映画は、アメリカで制作されることが多い。現在どのジャンルの映画でもそうだけれど、その金のかけかたでは、アメリカにかなう国など無い。
想像がつくだろうが、実際のレースを超える映画など作ることなど無理なのは、当然といえば当然。それを巨額の資金を投じて実際を上回ろうというのだからその意欲に対してだけでも感心してしまう。いったい、いくら使ったのか、資料がないのでわからないが、<巨額>であるのは間違いないだろう。 30 年前のことだから、現代のような CG を駆使したり特撮の技術などないに等しい。それをどうして観客に迫力を伝えたか、それは、カメラを抱えて実際にレースに出ることしかなかった。そう、 1970 年の実際のレースに 1 台の撮影用のマシンが参加していたのだ。ル・マンのオーガナイザー、参加ドライバー、そしてポルシェ、フェラーリの全面的な協力を得て映画の制作は進められた。例のカメラカーは、正規にエントリーして、時に はレースをし、時には撮影のスタッフカーとしてちゃんと 24 時間を走破したのだった。カーナンバー 29 のポルシェ 908/2 だ。 3 台のカメラを搭載したこのマシンは、その任務をきちんと果たして無傷でレースを走りきった。入賞こそできなかったが、リザルトでは 9 番目にランキングされたのだった。
そうそう、この映画の主演は誰だったかお知らせするのを忘れていた。自身もモータースポーツに実際参加していたスティーブ・マックィーンだ。彼が演じたアメリカの国際的(言い方が古い)レーシングドライバー、マイケル・デラニーが主人公で物語は展開して行く。
初めてル・マンを訪れたのは、この映画を見てから 12 年後のことだった。パリからクルマを飛ばして約 3 時間。右も左もわからないまま走っているとル・マンの市街を抜けて景色が開けたなっと思った瞬間、自分がユーノディエールのストレートを走っているのがわかった。それから、次々に「栄光のル・マン」のシーンが現実のものとなった。 |
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|  |  |  |  | |  |  | ルマン、それから。 1995年、その時私は世界中の人々がデジタルカメラを日常的に持ち歩き、感じたこと、思いついたことを、いつでも、どこでもインターネットに書き続ける将来を見たのである。
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