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tab_star2001/09/30tab_endLe Mans 24 h
Le Mans 24 h vol.3
連載第三回
ジャガーは、1950 年代、ル・マンで三連勝して世界的なモータースポーツカーブランドを獲得した。
1951 年のル・マン、デビューウインを飾ると、1953 年、そして、1955 年、1956 年、1957 年と三連勝して、ジャガーのモータースポーツにおけるロイアルブランドは確立されていく。その後、レースのノウハウを結晶化させた、E-Type で米国市場に上陸したジャガーは、もっともジェントルなスポーツカーとしての地位を得ることになる。
文:高橋二朗
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高橋二朗_プロフィール_写真Sicon_home高橋二朗
[フリーランス・モータースポーツ記者]
 編集長の永山氏によってインターネットの世界を知った。あれから 10 年。いまや、インターネットなしには仕事ができないまでになった。再び永山氏がモゾモゾと動き出すというので、長いもの(永山もの)に巻かれることにした。執筆させてもらいつつ、楽しませてもらうことにした。よろしく。
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ジャガーの 7 リッター V12 エンジン。
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ルマンには、英国のファンも多く詰めかける。
近代的な耐久レースの始まり 3

 グループ C カーのレギュレーションは、マシンのサイズとレース中に使用できる燃料の量を規定した以外は「縛り」はなかった。この範囲内でレースエンジニア達、デザイナー達がその頭脳を酷使してマシンを作り上げていったのだった。いち早くこのグループ C カーを作り上げてこのレギュレーションの施行と同時にトップコンテンダーとなったポルシェに代表されるようなターボチャージドエンジンをマウントしたグランドエフェクトカーがこのシリーズに参加するマシンのコンベンショナルなスタイルとなった。世界各地からル・マンを目指すメーカーもポルシェと同じようなコンビネーションを持つマシンを設計して持ち込んできた。
 しかし、このレギュレーションはユニークなアプローチを見せたマシンの登場も生み出した。それは、パワーではターボカーに劣勢と判断されていた自然吸気エンジンつまり、ターボチャージャーを使わない強制吸気の装置を持たないノーマルアスピレーテッドエンジンを搭載したマシン、それもオーバーオールのコンペティションにも参加できる競争力を持ったマシンの登場を実現させたのだった。

 ポルシェなどのターボチャージドエンジンはだいたい 700 馬力を発生させていた。予選ブーストでは当然のようにもっと出力を上げていたが、決勝の燃費走行を考えるとその程度のパワーとなってしまっていたのだ。このターボエンジンに対抗するためには大排気量のノーマルアスピレーテッドエンジンが必要となってくるのは当然だった。だが、そのエンジンを有する世界的に有名なメーカーが存在していた。
 それは、イギリスのジャガーだった。このメーカーの持つ V 12 エンジンは、 6.3 リッターから始まり、 6.5 、そして 7 リッターへと排気量をアップされて競争力を高めていった。最終的にはこのエンジンの出力はターボチャージドエンジンのそれに遜色ないものとなっていた。実にターボを付けたエンジンの倍の排気量を有することで肩を並べられることになったのだ。日本から参加していたトヨタの 3 S - GT の約 3 倍近くの排気量を有していた。

 レースに勝つためのパッケージを最初から組み立てるアプローチをするのがレーシングカーを作る課程においては極普通の形だが、ジャガーのアプローチはこれと正反対に自分の持つ「この V 12 エンジンを使って勝てるマシンを作れ」という大号令の下にマシン作りが行われた例だった。実にエンジンだけ(クラッチを含む)で 250 キロという重さがあるこのエンジンをミッドにマウントしたマシンのリヤカウルが外されるとそこにはリヤセクションいっぱいのエンジンが現れる。また、 V バンクの間には懐かしさすら感じてしまうエアーファンネルが 12 本立っているのだ。そしてだ、このエンジンはレーシングエンジンの代名詞である 4 バルブ、ダブルオーバーヘッドカムシャフト( DOHC )ではない。 OHV つまりエンジンヘッドに一本のカムシャフトのみを持ち、バルブは吸気と排気一本ずつ。郷愁を感じてしまうエンジンを最新のレーシングテクノロジーが包みマシンを構成している。グループ C カーのレギュレーションが生み出した妙といえる。
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1984 年、アメリカの IMSA シリーズを戦っていたマシンを投入した。 
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E-Typeの原形となり、ル・マン連勝の立役者である、ジャガーD-Type。
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1956 JAGUAR XKSS Steve McQueen 所有
脚注参照のこと
ル・マンの主役達 3

ジャガー XJR 5
 ル・マン 24 時間レースの舞台となるサルテサーキットは、第 1 回フランスグランプリの舞台だった。そして 1923 年から 24 時間レースが開催されて、現在に至る。レースの起源には諸説あるが、レースの本場であるヨーロッパでもフランスが最初、いやイギリスだと、いまだにやり合っている。そんなものだからイギリス勢が優位性をフランスに、強いては世界に示す絶好の場としてこのル・マン 24 時間レースに出場しないわけがなかった。

 まず、 1924 年の第 2 回にベントレーが優勝、 1927 年から 1930 年まで 4 年連続で優勝し、黄金時代を築いた、そしてその後ラゴンダの優勝を経て 1950 年代に入ってジャガーが台頭してきた。数々のレースで活躍していたジャガー XK 120 というスポーツカーをよりレース用に軽量化、エンジン、操舵系を改良した XK 120 C を 1951 年のル・マンに持ち込んだ。これが、ジャガーの時代を築く魁となった「C タイプ」であった。その年、ル・マンデビューイヤーに優勝をさらい、 1953 年にも勝った。そしてレース専用に開発された「D タイプ」が 1954 年に投入されるのだが宿命のライバル、フェラーリの後塵を拝して 2 位でゴール。しかし翌年の 1955 年から破竹の 3 連勝を飾るのだった。ドライバーの背後に独特なバーチカルなフィンを持つ D タイプは、ベントレー以降、イギリスの威厳を大いにフランスに誇示したマシンだったのだ。
 さて、 1950 年代以降ではアストンマーティンが気を吐くが、イタリアのフェラーリ、アメリカからはフォード、そして地元フランスから参加のマトラ、ルノーが首位を牛耳った。「D タイプ」に続く「E タイプ」はレースユースよりも高性能乗用スポーツカーとして開発されたものであったためにル・マンでこれといった成績を修められていない。

 そして 1984 年になんとアメリカから出場?!したジャガーが再びル・マンのジャガー新時代を築き始めたのだった。アメリカで行われていたスポーツカーの IMSA シリーズに参加していた XJR 5 を持ち込んだのがプロジェクト 44 の中心人物ロバート・チャールズ(通称ボブ)・チューリアスだ。彼のル・マン参戦への夢をジャガーと共に実現した。コンベンショナルなアルミ・モノコックシャシーに V 12 エンジンを教科書通りのストレスメンバーとしたスポーツカーは 1982 年にプロジェクトがスタートして、 2 年後 IMSA の GTP クラスでアメリカから参戦を果たした。アメリカからとはいえ、ジャガーのロゴをつけたスポーツカーは注目を集めた。しかしながらレース序盤でトップグループの一角となったものの、徐々にトラブルなどで後退を余儀なくされた。この V12 エンジンは、 XJ 13 という試作車積まれてテストを繰り返した。このエンジンをチューリアスはアメリカのツーリングカーレースに引っぱり出した。やがて、 V 12 エンジンは XJS に積まれることになる。ビッグ・キャットと呼ばれたこのツーリングカーでジャガーはアメリカ、ヨーロッパのツーリングカーレースを席巻する。
 ル・マンにおけるプロジェクト 44 の闘いをピット上のテラスから見守っていたジョン・イーガン、ジャガー会長の頭には、栄光をその手に奪還する構想がすでにあったのだろう。

 ル・マンへの参戦は 1986 年からはヨーロッパで XJS を駆って活躍していたトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)に委ねられることとなった。トニー・サウスゲイトがデザインした XJR 6 は、 1985 年から世界耐久選手権シリーズに参戦、当時王者として君臨していたポルシェを脅かす存在となった。ブリティッシュ・グリーンに白のストライプ、そして JAGUAR と TWR 、そして DUNLOP だけのステッカーを張ったマシンが登場するや本家の登場を誰もが確認した。そして 1986 年には SILK CUT のスポンサーを受けた XJR 6 LM がサルテサーキットに現れたのだった。
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ステアリングをラジオコントロールするために
巨大なサーボからチェーンが取り付けられている
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パッと見るとカートに乗っているようだが、
これがコントローラー。
Cinema [ Le Mans ] inside 3

 ヒロインのリサについては前回書いた。その悲劇のヒロインはまたしても悲劇に遭遇してしまう。彼女とル・マンへ訪れたドライバーは命を落としてしまう、魔性の女なのかもしれない。しかし、吸い込まれてしまいそうな瞳。最近サーキットでこんな美人見たことない。その年彼女を連れてきたフェラーリに乗り込んだプレイボーイのドライバーはウエットコンディションとなってスリッピーな路面でスピンしていたマシンを避け損ねてコースオフ、森に突っ込んでしまい、マシンが炎上してしまう。直前にマシンからは脱出したものの、爆風で吹き飛ばされてしまう。スローモーションを巧みに使った映像演出に胸がときめいた。

 主人公のマイケル・デラニーことマックウィーンは、その事故現場の横を通過した際にリサの彼氏のマシンであることを瞬時に察知しする。そして直後バックミラーにオレンジ色の炎が見えた。動揺を隠せないデラニー。と、そのとき目の前にポルシェの GT カーが突然現れる。追突を避けようとステアリングを切ってバランスを崩したポルシェ 917 はコースサイドのガードれるにクラッシュ、コース反対側へ押し返され、そこで再度ガードレールにクラッシュしてマシンは止まった。
 最初のアクシデントが起こったのがインディアナポリスだ。右にターンし、次ぎに直角に左へ曲がるテクニカルセクションだ。このコーナーに進入するところですでにバランスを崩してフェラーリはコースアウトしてしまったのだ。そしてデラニーは、次の右へ直角へ曲がるアルナージュのコーナーまでに炎を確認してポルシェコーナーへ続く高速セクションをアクセル全開で走行していた。そのときにデラニーもアクシデントを起こしてしまう。コクピットの中で少し気を失ってしまっていたデラニーは、意識を回復して、今何が自分に起きたのかを思い返す。このときマックウィーンは目だけで演技して、その緊迫感を表現していた。マシンは大破したが彼に大きなけがはなかった。

 実車を使い、撮影されたクラッシュのシーンは、いったいどうやって行われたのか不思議だった。もし、スタントマンがマシンを操縦していたとしたら、正に決死のスタントだったはず。ところがそのシーンは実車をラジオコントロールしてクラッシュさせていたのだ。ドライバー役のダミーがシートに据え付けられ、操縦はラジコンカーと同じにプロポで操作されてコースオフ、そしてガードレースにクラッシュさせていたのだ。プロポを操作した「ドライバー」?は、高く組まれた台の上に鎮座し、レーシングカーと同じ位置に置かれたペダル、ステアリングを操作した。
 本番前のテスト、はサルテサーキットの横にある飛行場を借り切って水をまき、大きなラジコンカーをドリフト状態にしたりスピンさせたりした。
 コースオフのシーンは各アングルから 10 台のカメラで撮影された。その迫力あるシーンは、やはり実車を使わなくては出来なかったものだ。
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JAGUAR_XKR_M
data
JAGUAR XKR
現行ジャガーラインナップで最強のスポーツを楽しめる
tab_links_b
ACO
http://www.lemans.org/
ジャガージャパン
ジャガージャパン
http://www.jaguar.co.jp...
ジャガージャパンのオフィシャルホームページ。ジャガーの歴史など。
ピーターセン自動車博物館
http://www.petersen.org...
マックイーンの愛車のジャガー XKSS が展示してある
SUNTORY SATURDAY WAITING BAR(東京 FM)
http://www.avanti-web.c...
1997 年にルマンの話で VividCar 編集長がラジオ出演しています。
recommend
サマリー情報_サムネール
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インディアナポリス :
最高速からフルブレーキングで進入する左のコーナー。その先には右に直角に曲がるアルナージュがある。
1956 JAGUAR XKSS Steve McQueen 所有 :
XKSS は、レーシングカーとして成功した Jaguar D-Type のロードバージョンです。
前所有者である、TV パーソナリティの Bill Leyden がビバリーヒルズ付近をドライブ中、McQueen が、このクルマを見かけたと言われています。
この車は、オリジナルは、外観は白でインテリアは赤というデザインで製造された 16 台中の 1 台です。
McQueen がこの車を購入した後、彼の大好きな色である濃い緑に塗り替え、さらに、ダンロップホイールを磨きあげ、インテリアを、家具職人である Tony Nancy が手がけ、黒色に手入れし直した。
McQueen は、この車を猛スピードでドライブすることが好きで、そのため、購入して 1 年以内で、免停 2 回になるほど、沢山のスピード違反チケットを切られました。
さらに、McQueen は、メカニックとしても才能があったので、ほとんどのメンテナンスは、彼自身が手がけました。
この車が非常に希少価値があり、レースができるという価値もあったので、1970 年代に、コレクターで名高い Bill Harrah に売却しました。
McQueen は、結局は、この XKSS を再度獲得し、1984 年で癌で亡くなるまで、所有していました。
その年、オークションで、コレクターである Richeard Freshman が購入しました。Freshman は、この低マイレージ車を、 Hot Rod の アーティストであるVon Dutch によるペイントや、同じくVon Dutch による特別製のグローブボックスドアなど、貴重な特色を残しつつ、一新しました。

注:ピーターセン自動車博物館展示資料の訳文
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