 |  |  | | | ミスター K こと、片山豊氏と会った | | ジャガーは、フロントが長く、走っている時は、まるでチーターのようだ |  | 片山氏は語る。
「ジャガーは、フロントが長く、走っている時は、まるでチーターのようだ。そのマネをするつもりはなかったが、遠くからみて、ジャガーに似ている美しいクルマを作りたかった」 片山氏は、クルマの形は、走っているときの形だという。ジャガーも、そのイメージを受け継いだダットサン Z カーも、走る姿が、猛獣のように美しい。 「クルマ作りは、すべて、人が基準。人が乗って、人が運転するのを妨げない造りでなければならない。だから、動物的な感覚で、クルマを造れと言い続けてきた」 |  | |  | |
|  |  |  |  |  |  | 永山辰巳 [VividCar 元編集長] |  |  |  | | 2006年、VividCarはプロフェッショナルなブロガーを目指します。創刊以来5年を迎え、ちまたのブログサイトとは一線を画するVividCarは、ネットワーク知識編纂をビジョンに確実にコンテンツを増やしながら未来のWebBookメディアを開発してきました。私たちはこれをWebフォトジャーナルシステム呼びます。生涯にわたり記録し続け知識を編纂する楽しみをごいっしょに。 |  |
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 |  |  |  |  |  | 1963 年製のジャガー E-TYPE。 シリーズ 1 と呼ばれ、3.8 L のストレート 6 ( XK 6 )エンジンを持つ。 これが 1950 年代のデザインであり、 1960 年代世界の自動車デザイナーを震撼させた唯一無二のロングノーズ、ファーストバックの元祖とも言える。 |  |
|  |  | ジャガー E-TYPE
ジャガーは、 1960 年初頭より、 E-TYPE を米国にて売り出す。 1950 年代の輝かしいレースでの戦歴をブランドイメージとしてまとい、折りからの米国におけるスポーツカー時代の到来と共に、アメリカ人の羨望の的となった。 E-TYPE は、 1961 年から 1974 年頃まで約 77,000 台生産されて、その 75% 近くは米国で販売されたという。 しかし、 E-TYPE は、庶民のクルマと言うより富豪層の大切な宝物というイメージであったようだ。それも、気難しいクルマであり、乗用すると言うよりはガレージに眠っていることが多く、部品も安定して供給されていなかったので、徐々に販売は思わしくなくなっていった。 |
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 |  |  |  | | 世界で最も安価で最も高性能で、そして 100 万台も売れた |  |
|  |  |  | ダットサン Z カーの登場
片山氏は、ジャガーに憧れながら、 1960 年代前半、オープンカーの SP 311 (日本名フェアレディー)で、スポーツカーブランドのダットサンをアピールし始めていた。そこで次には、ジャガーのようなクーペタイプで大陸横断も可能な全天候型の小型スポーツカーを造り、米国日産の基盤をさらに確固たるものにしようと考えた。 片山氏の予想通り、ダットサン Z は、 10 年間の販売記録として約 100 万台を売り上げ、アメリカンドリームを成し得た日本人として、その後、アメリカに広く知れ渡り、ミスター K とまで呼ばれるのである。
「米国の誰もがこのクルマを知るようになった。欧州でスポーツカーを作っていたメ ーカーも驚異をもったようでした」
歴史の紐をとけば、ジャガーと日産の米国におけるブランディングは、わずか数年の違いであり、 SP 、 SR のライトウエイトオープンカーは、 MG より一年早く登場し、 Z は、 E-TYPE 、そして E-TYPE を超えた小型のフェラーリとも言える、ピニンファリーナ顔負けのデザインで米国で大成功を遂げるのである。 |
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 |  |  |  |  | | 「私は、ジャガーをイメージしつつも、当時のダットサンの勢いとお客様の要望を肌で感じながら、デザインをどうして欲しいのか、松尾さんに伝えたんだよ」 |  |
|  |  | DATSUN というブランド
「のれんという言葉がありますね。これはブランドと同意語です。フォード、ジャガーなど世界の自動車会社は、そのクルマに創始者の名前をつけている。米国での自動車ビジネスにおいて、そのブランドは大切だと感じました。そこで、看板、ディーラー名も、すべて、 DATSUN で統一したのです。また、そのころ DATSUN は、 1958 年、オーストラリア・ラリーに出場し、そこで優勝した S 210 の名が、世界中に広まっていたこともあり、米国で一気に浸透していきました」
1958 年(昭和 33 年)に開催されたオーストラリア一週ラリー(モービスガス・トライアル)への参加は、片山氏にとって転機となった。氏は正直に全く勝てるとも思っていなかったことを語った。 しかし、結果は、富士号( 210 セダンベース)は A クラス( 1000 cc 以下)で優勝、桜号が 4 位という輝かしい国際レースでのデビューをしてしまう。 ここで片山氏は、難波氏(のちに NISMO の社長となる)などと国際ラリーレースに参加していく。会社の上層部は、レース活動が社内の士気高揚のみならず、会社の宣伝に大いに役立つと思い始め、ダットサンのスポーツカー開発に弾みがついていったのだと当時を思い出しながら感慨深く応えて頂けた。 |
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 |  | |  | 参照(日産資料より抜粋) DATSUN の誕生について
「 DATSON ダットソン」は、昭和 6 年 8 月に日産自動車の前身である「ダット自動車製造」で生産された。「 DAT 」とは、ダット自動車製造のさらに前身の快進社の出資者である田健次郎( D )、青山禄郎( A )、竹内明太郎( T )の頭文字を組み合わせたもので「 DATSON ダットソン」は「快進社」で生産された「 DAT CAR 」の息子という意味で命名された。 昭和 7 年には「 SON 」を太陽の「 SUN 」に変更し、以後「 DATSUN ダットサン」が日本の自動車産業を牽引していくことになる。 |
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|  |  |  |  | |  |  | 50 歳になったらジャガーに乗りたい 40 歳になったときに、なんとなくだが、50 歳になったらジャガーに乗りたいとふと思った。そんなたわいもない憧れはどこから来るのだろうか?人生の中でのクルマ選びは、人それぞれの価値観の中で形成されるのだろうが、私なりの憧れのジャガーにアプローチしてみた
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