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tab_star2003/02/17tab_endVividCinema
もう1つのルマン Vol.3
Cinema [Le Mans] inside - ルマンと映画
 高橋二朗氏によって連載された「Le Mans 24h」の記事は毎回「近代的な耐久レースの始まり」「ルマンの主役達」「Cinema [Le Mans] inside - ルマンと映画」という3つの章から成り立っていました。
 この「もう1つのルマン」ではそのそれぞれの切り口ごとに記事を再構成しております。Vol.3 では「Cinema [Le Mans」についてクローズアップします。(編集部)
文:高橋二朗
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Cinema [Le Mans] inside - ルマンと映画page1サマリー情報_サムネール
Cinema [Le Mans] inside - ルマンと映画page2サマリー情報_サムネール
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高橋二朗_プロフィール_写真Sicon_home高橋二朗
[フリーランス・モータースポーツ記者]
 編集長の永山氏によってインターネットの世界を知った。あれから 10 年。いまや、インターネットなしには仕事ができないまでになった。再び永山氏がモゾモゾと動き出すというので、長いもの(永山もの)に巻かれることにした。執筆させてもらいつつ、楽しませてもらうことにした。よろしく。
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日本公開時のパンフレットと、Galf のポスター
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栄光のルマン DVDのパッケージ
発売元:パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
¥3,980(税抜)2003 年 6 月 27 日発売予定
栄光のルマン

 ル・マンを題材にした映画があったのをご存知だろうか。少なくとも 40 代の方でないと記憶にないと思う。なぜなら、その映画が公開されたのが 1971 年のことだったからだ。この映画、原題を「Le Mans」といい、邦題「栄光のル・マン」といった。モータースポーツに憧れを抱いていた少年だった当時は、この題名に心ときめかせたものだったが、今更に考えてみると安易で陳腐にも感じてしまう。モータースポーツを題材とした映画は、アメリカで制作されることが多い。現在どのジャンルの映画でもそうだけれど、その金のかけかたでは、アメリカにかなう国など無い。
 想像がつくだろうが、実際のレースを超える映画など作ることなど無理なのは、当然といえば当然。それを巨額の資金を投じて実際を上回ろうというのだからその意欲に対してだけでも感心してしまう。いったい、いくら使ったのか、資料がないのでわからないが、<巨額>であるのは間違いないだろう。 30 年前のことだから、現代のような CG を駆使したり特撮の技術などないに等しい。それをどうして観客に迫力を伝えたか、それは、カメラを抱えて実際にレースに出ることしかなかった。そう、 1970 年の実際のレースに 1 台の撮影用のマシンが参加していたのだ。ル・マンのオーガナイザー、参加ドライバー、そしてポルシェ、フェラーリの全面的な協力を得て映画の制作は進められた。例のカメラカーは、正規にエントリーして、時に はレースをし、時には撮影のスタッフカーとしてちゃんと 24 時間を走破したのだった。カーナンバー 29 のポルシェ 908/2 だ。 3 台のカメラを搭載したこのマシンは、その任務をきちんと果たして無傷でレースを走りきった。入賞こそできなかったが、リザルトでは 9 番目にランキングされたのだった。
 そうそう、この映画の主演は誰だったかお知らせするのを忘れていた。自身もモータースポーツに実際参加していたスティーブ・マックィーンだ。彼が演じたアメリカの国際的(言い方が古い)レーシングドライバー、マイケル・デラニーが主人公で物語は展開して行く。
 初めてル・マンを訪れたのは、この映画を見てから 12 年後のことだった。パリからクルマを飛ばして約 3 時間。右も左もわからないまま走っているとル・マンの市街を抜けて景色が開けたなっと思った瞬間、自分がユーノディエールのストレートを走っているのがわかった。それから、次々に「栄光のル・マン」のシーンが現実のものとなった。
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このカラーリングは、 Ford GT 40 にも使われた。
今年のルマンでは Audi がこのカラーで出場した。
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デラニー役の S.マックィーンと
リサ役のエルガ・アンデルセン
チャンピオンカラーのマシン

 1983 年のこと。フランスを走るのが初めてだというのに、シャルル・ド・ゴール空港からよくもまあル・マンまでたどり着けたものだった。空港のレンタカー屋さんでもらった簡単なルートマップを片手に彼の地を目指した。実は、空港でバッタリ会った人から心強いアドバイスを受けたからこそめでたくル・マンまで行けたのだった。そのアドバイスをくれた人物は、故京極正明ダンロップ・モータースポーツ部長だった。住友ダンロップが本家ダンロップを買収したことで京極さんはダンロップのモータースポーツ部門のトップとなった。そのような人から教えをいただいたとは、ありがたかった。「なんや、ル・マンへ行くの初めてかいな。そしたらな、まずは、オルリーへ向かって走って、その次ぎにチャーターという表示が出たらそっちや。ええか、チャーターや。本当はシャルトルと言うんやがな、ローマ字読みしたらチャーターや。わかりやすいやろ。 A 11 の高速道路でチャーター過ぎたら、ル・マンの名前が出てくるわ。運が良かったら現地で会えるわ(笑)」と教えてくれた。そして、気がつくとユーノディエールのストレートを走っていたのだから運が良かった。
 さて、映画の話だ。主人公のアメリカ人ドライバーのマイケル・デラニーは、ル・マンの市街をポルシェ 911 (確かタルガだったと思う)で走っていた。ポルシェは、街の中心にある、サン・ジュリアン教会の下の朝市にさしかかる。ふと、花屋で花を買う女性を見つけた。これがヒロインのリサ・ベルジェッティー(エルガ・アンデルセン = スカンジナビア美人)だ。車から降り、ドアの横に立ったまま遠くから声も掛けずに見つめるデラニー。「リサ、君も来ていたのか・・・」(注:映画のプログラム解説文から)彼女の夫は、前年にここ、ル・マンで事故死していた。デラニーもけがを負った。しかし、 2 人は再びル・マンへ来ていた。彼女は、プレイボーイでならす他のドライバーと一緒だった。まあ、映画の最初は、ロマンチックな展開で、例のマックウィーンの表情が思案げで、声を掛けようか、どうしようか、やっぱり止そうという心の葛藤を演技していた。再び彼は車に乗り込み、サーキットへと向かって行く。最初のシーンとなったサン・ジュリアン教会の下にジャコバン広場があって、ここが車検場となる。予選日の前まで 2 日間ここに全参加車が運ばれてきて次々と車検受ける。その模様を誰でも無料で見ることができる。普段はただの広場だが、ル・マン 24 時間レースの車検となると人がごったがえす。なんと言ってもル・マン 24 時間レースはサルテ地方の一大イベントなのだ。フランス語のアナウンスも一種独特、これを聞くと再び 24 時間レースが始まるのだなと思う。この車検はこの映画には登場しない。
 デラニーは、ポルシェワークスチームのエースドライバーだ。カーナンバー 20 のポルシェ 917 。ガルフ石油のスポーンサードを受け、水色ベースにオレンジ色のラインが入ったカラーリング。ドライバーのスーツは、白ベースに左側にブルーとオレンジのストライプが縦に入る。左胸に Gulf」のワッペンがつけられている。デラニーは、耐火性の布でマスクをし、ブルーメタリックのジェット型ヘルメットを被る。 1970 年代の当初、フルフェイスのヘルメットはまだ普及していなかった。そして、目出しのフェイスマスクさえなかったのだ。しかし、マックウィーンがマスクしただけで格好良さがほとばしるのはなぜだろう。ヘルメットのベルトを締める仕草もこれまた格好いい。
 スタートを前にして、ピットに現れるデラニー。左手にヘルメットをプラプラ下げて、ファンの声援に軽く右手で応える。その歩き方は、大脱走の時に捕まって独房に入れられる時よりは胸を張って堂々としていた。
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ステアリングをラジオコントロールするために
巨大なサーボからチェーンが取り付けられている
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パッと見るとカートに乗っているようだが、
これがコントローラー。
迫力のシーン

 ヒロインのリサについては前回書いた。その悲劇のヒロインはまたしても悲劇に遭遇してしまう。彼女とル・マンへ訪れたドライバーは命を落としてしまう、魔性の女なのかもしれない。しかし、吸い込まれてしまいそうな瞳。最近サーキットでこんな美人見たことない。その年彼女を連れてきたフェラーリに乗り込んだプレイボーイのドライバーはウエットコンディションとなってスリッピーな路面でスピンしていたマシンを避け損ねてコースオフ、森に突っ込んでしまい、マシンが炎上してしまう。直前にマシンからは脱出したものの、爆風で吹き飛ばされてしまう。スローモーションを巧みに使った映像演出に胸がときめいた。
 主人公のマイケル・デラニーことマックウィーンは、その事故現場の横を通過した際にリサの彼氏のマシンであることを瞬時に察知しする。そして直後バックミラーにオレンジ色の炎が見えた。動揺を隠せないデラニー。と、そのとき目の前にポルシェの GT カーが突然現れる。追突を避けようとステアリングを切ってバランスを崩したポルシェ 917 はコースサイドのガードれるにクラッシュ、コース反対側へ押し返され、そこで再度ガードレールにクラッシュしてマシンは止まった。
 最初のアクシデントが起こったのがインディアナポリスだ。右にターンし、次ぎに直角に左へ曲がるテクニカルセクションだ。このコーナーに進入するところですでにバランスを崩してフェラーリはコースアウトしてしまったのだ。そしてデラニーは、次の右へ直角へ曲がるアルナージュのコーナーまでに炎を確認してポルシェコーナーへ続く高速セクションをアクセル全開で走行していた。そのときにデラニーもアクシデントを起こしてしまう。コクピットの中で少し気を失ってしまっていたデラニーは、意識を回復して、今何が自分に起きたのかを思い返す。このときマックウィーンは目だけで演技して、その緊迫感を表現していた。マシンは大破したが彼に大きなけがはなかった。
 実車を使い、撮影されたクラッシュのシーンは、いったいどうやって行われたのか不思議だった。もし、スタントマンがマシンを操縦していたとしたら、正に決死のスタントだったはず。ところがそのシーンは実車をラジオコントロールしてクラッシュさせていたのだ。ドライバー役のダミーがシートに据え付けられ、操縦はラジコンカーと同じにプロポで操作されてコースオフ、そしてガードレースにクラッシュさせていたのだ。プロポを操作した「ドライバー」?は、高く組まれた台の上に鎮座し、レーシングカーと同じ位置に置かれたペダル、ステアリングを操作した。
 本番前のテスト、はサルテサーキットの横にある飛行場を借り切って水をまき、大きなラジコンカーをドリフト状態にしたりスピンさせたりした。
 コースオフのシーンは各アングルから 10 台のカメラで撮影された。その迫力あるシーンは、やはり実車を使わなくては出来なかったものだ。
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JAGUAR_XJR_SJAGUAR XJR
PORSCHE_911 Targa_SPORSCHE 911 Targa
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もう1つのルマン Vol.1
「近代的なレース」という側面からみたもう 1 つのルマンをお楽しみ下さい>
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もう1つのルマン Vol.2
「ルマンの主役達」という側面からみたもう 1 つのルマンをお楽しみ下さい
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2004 ル・マン 24 時間耐久レース 決勝!
今年もル・マン 24 時間レースの季節がやってきました。決勝はフランスでは 6 月 12 日午後 4 時スタートですが時差のため、日本時間では 6 月 12 日(土)夜11時からとなります。
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ユーノディエールのストレート :
かつてのルマン名物ともいえるユーノディエールは、なんと 6 km に及ぶストレート。現在は途中に 2 つのシケインが設けられている。
インディアナポリス :
最高速からフルブレーキングで進入する左のコーナー。その先には右に直角に曲がるアルナージュがある。
1956 JAGUAR XKSS Steve McQueen 所有 :
XKSS は、レーシングカーとして成功した Jaguar D-Type のロードバージョンです。
前所有者である、TV パーソナリティの Bill Leyden がビバリーヒルズ付近をドライブ中、McQueen が、このクルマを見かけたと言われています。
この車は、オリジナルは、外観は白でインテリアは赤というデザインで製造された 16 台中の 1 台です。
McQueen がこの車を購入した後、彼の大好きな色である濃い緑に塗り替え、さらに、ダンロップホイールを磨きあげ、インテリアを、家具職人である Tony Nancy が手がけ、黒色に手入れし直した。
McQueen は、この車を猛スピードでドライブすることが好きで、そのため、購入して 1 年以内で、免停 2 回になるほど、沢山のスピード違反チケットを切られました。
さらに、McQueen は、メカニックとしても才能があったので、ほとんどのメンテナンスは、彼自身が手がけました。
この車が非常に希少価値があり、レースができるという価値もあったので、1970 年代に、コレクターで名高い Bill Harrah に売却しました。
McQueen は、結局は、この XKSS を再度獲得し、1984 年で癌で亡くなるまで、所有していました。
その年、オークションで、コレクターである Richeard Freshman が購入しました。Freshman は、この低マイレージ車を、 Hot Rod の アーティストであるVon Dutch によるペイントや、同じくVon Dutch による特別製のグローブボックスドアなど、貴重な特色を残しつつ、一新しました。

注:ピーターセン自動車博物館展示資料の訳文
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